評論家、小説家。東京に生まれる。東京帝国大学医学部卒業。在学中の1942年(昭和17)、中村真一郎、福永武彦(たけひこ)と押韻(おういん)定型詩の運動「マチネ・ポエティク」をおこし、また第二次世界大戦後いち早く中村、福永との共同執筆による時評風の評論集『1946 文学的考察』(1947)を刊行、注目された。続いて自身の戦争体験に基づいた小説『ある晴れた日に』(1949)によって戦後作家の位置を得るとともに、『文学と現実』(1948)、『文学とは何か』(1950)、『抵抗の文学』(1951)などの多彩な評論活動を展開した。1951年(昭和26)フランスに留学するが、その成果として評論集『雑種文化』(1956)では、西欧文化を純粋とすれば日本文化は優れた伝統を基盤としての雑種文化とし、そこに文化創造の新しい可能性を予見するという卓抜した文化論を示した。
1960年、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学に招かれ、また70年にはベルリン自由大学教授となり、日本との間を往復しながら文筆活動を続けたが、自然科学から人文科学に及ぶ広い視野、豊富な知識と教養、明晰(めいせき)で鋭利な論理によって、『二つの極の間で』(1960)、石川丈山(じょうざん)、一休、富永仲基(なかもと)をそれぞれとりあげた小説体の文化論『詩仙堂志』(1964)、『狂雲森春雨(くるいぐももりのはるさめ)』(1965)、『仲基後語(なかもとごご)』(1965)、小説『三題噺(さんだいばなし)』(1965)、『芸術論集』(1967)、回想録『羊の歌』正続(1968)、『言葉と戦車』(1969)、訪問記『中国往還』(1972)、日本美術論集『称心独語』(1972)、短編小説集『幻想薔薇(ばら)都市』(1973)などを刊行した。大仏(おさらぎ)次郎賞を受賞した『日本文学史序説』上下(1975、80)では、西洋の影響を受けながら伝統を独自に築いた日本文学史を世界的な視点から論証し、一つの指標を提出した。さらに1984年(昭和59)7月から2002年(平成14)4月現在に至るまで、『朝日新聞』の夕刊に毎月1回、多岐の話題にわたって「夕陽妄語(せきようもうご)」という題で論説を寄稿しているほか、『現代日本私注』(1987)、『読書術』(2000)、『私にとっての20世紀』(2000)などの刊行がある。
[古木春哉]
『『三題噺』新装版(1977・筑摩書房)』▽『『加藤周一著作集』全15巻(1978~79・平凡社)』▽『『幻想薔薇都市(シリーズ旅の本箱)』(1994・岩波書店)』▽『『私にとっての20世紀』(2000・岩波書店)』▽『『加藤周一対話集』全4巻・別巻(2000~01・かもがわ出版)』▽『『夕陽妄語6』(2001・朝日新聞社)』▽『『羊の歌』(岩波新書)』▽『『雑種文化』(講談社文庫)』▽『『日本文学史序説』上下(ちくま学芸文庫)』▽『『読書術』(岩波現代文庫)』▽『海老坂武著『戦後思想の模索――森有正、加藤周一を読む』(1981・みすず書房)』
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…荒正人,平野謙らを含む後者は戦後の新文学を生みだす基盤をつくり,やがて野間宏,椎名麟三,武田泰淳らの登場をうながした。早熟の三島由紀夫も彼らとともに登場し,他方,加藤周一ら〈マチネ・ポエティク〉のグループも新しい主張をおこなって注目された。しかし前述の《新日本文学》や《近代文学》の対極には非左翼系の批評として小林秀雄,福田恒存,中村光夫らの活動もあった。…
…東大仏文科卒。1942年に中村真一郎,加藤周一らと文学グループ〈マチネ・ポエティク〉を結成し,押韻定型詩をこころみ,また長編を書きすすめた。戦後は結核が再発して療養生活をつづけたために出発がおくれたが,長編《風土》(1952)が西欧的ロマンとして注目され,《草の花》(1954)によって戦後作家としての位置を確立した。…
※「加藤周一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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