改訂新版 世界大百科事典 「金光大神」の意味・わかりやすい解説
金光大神 (こんこうだいじん)
生没年:1814-83(文化11-明治16)
金光教の創唱者(戸籍上は金光大陣と改名を強要された)。幼名は源七,川手家の養子となり文治郎,通称文治,のち赤沢姓,金光姓。備中国浅口郡占見村の農民香取十平・しもの5男3女の次男。1825年(文政8)隣村の大谷村(現岡山県浅口市,旧金光町)の没落自作農川手粂治郎の養子となる。幕府天文方渋川景祐の門人で陰陽頭土御門家の直門であった同村庄屋小野光右衛門に手習いをならい,36年(天保7)に家督を継ぎ,農事に精励,家産を回復した。生来信心深く,55年(安政2)42歳の厄年に難病を患い,金神(こんじん)の祟りを教えられたことで金神信仰を深めた。57年に実弟香取繁右衛門が神がかりをして金神の教えを説くとその熱心な信者となり,翌年にはみずからも金神の知らせを受ける身となった。59年,神命によって隠居,10月21日に〈立教神伝〉が下ったとして農事をやめて天地金乃神に仕え,神意を人々に取りつぐ生活に入った。布教の公許を得るため67年(慶応3)に白川家より金神社神主の補任状を受けるなどし,明治維新後は政府の圧迫下で73年に〈天地書附〉をつくり,74年より自伝的内容をもつ〈金光大神覚〉を述作し教義をかためたが,神道事務局傘下に入ることを最後まで許さなかった。諡号(しごう)は生神金光大神人力威命(じんりきおどしのみこと)。
執筆者:大濱 徹也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報