金沢顕時(読み)かねざわあきとき

精選版 日本国語大辞典 「金沢顕時」の意味・読み・例文・類語

かねざわ‐あきとき【金沢顕時】

  1. ほうじょうあきとき(北条顕時)

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改訂新版 世界大百科事典 「金沢顕時」の意味・わかりやすい解説

金沢顕時 (かねさわあきとき)
生没年:1248-1301(宝治2-正安3)

鎌倉中・後期の武将北条氏の一門,実時の子。法名は恵日。官位は越後守,従五位下。引付衆,評定衆,引付頭などの要職歴任し,1285年(弘安8)岳父安達泰盛弘安合戦連座して自領の下総国埴生荘に配流された。93年(永仁1)許され執奏(しつそう)として返り咲いた。学問信仰に篤く《春秋経伝集解》を書写伝受,仏書《伝心法要》を開板した。また父実時の創建した称名寺興隆につとめ梵鐘を再鋳した。墳墓は同寺境内にあり,その石造五輪塔から骨蔵器の青磁壺(重文)が出土した。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「金沢顕時」の解説

金沢顕時 かねざわ-あきとき

1248-1301 鎌倉時代の武将。
宝治(ほうじ)2年生まれ。金沢(北条)実時の子。評定衆,越後守(えちごのかみ)となり,弘安(こうあん)4年(1281)引付頭人。8年妻の父安達泰盛が執権北条貞時に討たれた霜月(しもつき)騒動に連座,下総(しもうさ)埴生(はぶの)荘に流されて出家。のちゆるされて執奏(しっそう)となる。学問をこのみ,書写した漢籍のおおくが金沢文庫におさめられた。正安(しょうあん)3年3月28日死去。54歳。初名は時方。通称は越後四郎。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「金沢顕時」の解説

金沢顕時
かねざわあきとき

1248~1301.3.28

鎌倉中期の武将。正五位下・越後守。北条氏一門の実時の子。初名は時方。法名は恵日(えにち)。1269年(文永6)引付衆となり,以後評定衆,引付頭人を歴任。85年(弘安8)妻の父の安達泰盛が内管領(ないかんれい)平頼綱に滅ぼされると,所領の下総国埴生(はぶ)荘に流されたが,93年(永仁元)頼綱の滅亡により復活,同年執奏,翌年引付頭人となった。父同様好学の士。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「金沢顕時」の意味・わかりやすい解説

金沢顕時
かねさわあきとき

[生]宝治2(1248)
[没]正安3(1301).3.28.
鎌倉時代後期の武将。実時の子。初名時方。越後守。法名慧日 (えにち) 。引付衆,評定衆,引付頭を歴任。弘安8 (1285) 年,秋田城介の乱に連座して一時籠居したが,のち幕政に復帰。父実時とともに好学の武将として有名。

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旺文社日本史事典 三訂版 「金沢顕時」の解説

金沢顕時
かねさわあきとき

北条顕時

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世界大百科事典(旧版)内の金沢顕時の言及

【金沢文庫】より

…鎌倉中期,金沢実時によって創設された文庫。武蔵国久良岐郡六浦(むつら)荘金沢郷(現,横浜市金沢区金沢町)の居館敷地内に設けられた。その時期は明白でなく,一応,実時が病をえて金沢の自邸に引きこもった1275年(建治1)ころとされている。金沢氏の居館跡は明らかでないが,現在の称名寺に隣接した西方の谷と考えられ,文庫はその後方の山際のあたりに独立の家屋として建てられた。後世この付近は御所ヶ谷と呼ばれ,文庫が設けられたと思われる東北側の小さな谷は文庫ヶ谷と称されている。…

※「金沢顕時」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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