和菓子の一種。やわらかくこねた小麦粉の薄い皮でアズキのつぶしあんを包むか,ようかん状に固めて方形に切ったつぶしあんに水溶きした小麦粉の衣をつけ,油をひいた平なべで焼いたもの。江戸前期,京都の清水坂に銀鍔(ぎんつば)と呼ばれる菓子があり,《雍州府志》(1684)によると,米粉をこねてアズキあんを包み,平なべで焼いたものであった。形が刀の鍔に似ていたためこの名があったといい,金鍔はその後身とされる。江戸では寛延・宝暦(1748-64)ころまでは麴町に1軒だけ金鍔を売る店があり,享和(1801-04)になって浅草の馬道で〈みめより〉と名づけた新製品を売り出した。このころはすでに小麦粉の皮になっていたと思われ,みめよりは上質のあんを使った方形のものであった。大坂では天保(1830-44)ごろ高麗橋近くの浅田屋という店のものが有名で,ほかに〈江戸金鍔〉と呼ばれるものがあった。浅田屋のそれはあんを木型で円形に抜き,小麦粉の水溶きをつけて焼くもので,〈横より見れば固詰あん見ゆる物なり〉と《浪華百事談》は記している。江戸金鍔のほうはみめよりのような方形のもので六方焼とも呼ばれ,これも人気があったという。江戸では明治になるまで〈土手の金鍔〉というのが有名だった。〈年期増しても食べたいものは土手の金鍔さつま芋〉と都々逸にうたわれたもので,吉原遊廓近くの日本堤に何軒もの店があった。この金鍔は,小麦粉の皮の円形のもので,表面に2本の指でくぼみをつけ,それが刀の鍔にそっくりだったという。
執筆者:鈴木 晋一
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焼き菓子の一種。金鍔焼きの略であるが、前身は京都の銀鍔だった。1686年(貞享3)刊行の『雍州府志(ようしゅうふし)』には焼餅(もち)とあり、粳米(うるちまい)粉を平たく円く延ばし、小豆餡(あずきあん)を包んで焼いたもので、刀の鍔に似る形状から銀鍔といわれた。京の清水(きよみず)坂あたりで、天和(てんな)年間(1681~84)ごろ売り出されたのが始まり。皮が薄く餡の多い量感が庶民に受けたが、「焼餅とは名ばかり、ほとんど小豆餡ばかりではないか」と看板の偽りを憤慨する人もいた。
銀鍔の仕法が江戸に流れたのは享保(きょうほう)(1716~36)以降であるが、江戸では銀鍔が金鍔と名を変えた。小麦粉を固くこねて小さな粒に丸め、薄く広げてつぶし餡をくるみ、鉄板にのせて軽く表面を焼くだけの菓子で、屋台売りが多かった。文化・文政(ぶんかぶんせい)年間(1804~30)は金鍔の全盛時代で、吉原の遊女たちの間に、「年季増しても食べたいものは土手の金鍔さつまいも」とうたわれた。浅草馬道におかめの面を看板にした金鍔屋が現れ、「みめより」と名づけた金鍔で評判をとった。人はみめより心、菓子も中身で勝負の心意気としたのである。このほか日本橋旧魚河岸(うおがし)の栄太楼(えいたろう)や、明治期になると南伝馬町凮月堂(ふうげつどう)の金鍔が大いに受け、昭和初期には横浜市伊勢佐木(いせざき)町にある亀楽(きらく)が大金鍔で名をあげた。また東京では、上野広小路の「へのへのもへじ」を焼き込んだ金鍔が評判であった。深川不動では毎月28日に現在でも屋台金鍔が出る。また地方名物では、伊豆天城(あまぎ)山中の浄蓮(じょうれん)ノ滝で、茶屋新月堂が風味のよい田舎(いなか)金鍔を手がけている。これは焼き菓子でなく蒸し金鍔である。
[沢 史生]
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