平安時代の中ごろ以降組織化された仏師の一派で,定朝の高弟の長勢に始まる。京都の三条に仏所があったことから,後世,三条仏所とも呼ばれる。名前に〈円〉をつけるのが普通である。平安時代には院派とともに皇家や貴族の造仏に当たることが多く,ことに12世紀前半の彫刻界は円勢一門の長円,賢円らを中心に展開した観があり,その後も明円(みようえん)など一流の仏師を輩出した。ことに長円は清水寺別当という高位を得たこともあった。13世紀の中ごろに行われた三十三間堂千体千手観音像の修造に活躍した隆円とその弟子たち以降は,ほとんど系譜もわからなくなるが,〈円〉のつく仏師は地方,たとえば福島の乗円,鎌倉の憲円,宗円,泉円,弘円など散見し,作例ものこっている。作風は1177年(治承1)に造立された明円の大覚寺五大明王像,1226年(嘉禄2)に経円(きようえん)の造った金剛輪寺阿弥陀如来像等から判断して,慶派の力強さや院派の繊細さと異なり,定朝様を受けつぐ整ったものといえよう。
執筆者:清水 真澄
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平安後期に活躍した仏師の一派の通称。定朝(じょうちょう)の弟子長勢(ちょうせい)の開いた仏所で、後世三条仏所とよばれる系統の仏師たちは、長勢に続く円勢以後、長円、賢円らのように、その名に円の字を用いた人が多いので、後世この派を円派とよんで、院派、慶派などと区別する。慶派(七条仏所)が奈良を中心としたのに対し、この一派は京都を中心に活躍し、代々穏健な作風と伝統的な古様を特色としたらしい。鎌倉時代に入って慶派が台頭するまでは11、12世紀を通じて大いに活躍したが、1199年(正治1)大仏師法眼明円(ほうげんみょうえん)の死後は名匠に乏しく、慶派にその地位を譲らねばならなかった。
[佐藤昭夫]
平安後期以降の仏師の一派。定朝(じょうちょう)の高弟長勢の弟子,円勢(えんせい)に始まる。この系統の仏師の名に円の字がつくことが多いのでこうよばれる。円勢についで長円・賢円,さらに明円と,12世紀を通じて六勝寺をはじめ宮廷や貴族の造像に華々しく活躍し,中央の造仏界で主導的な位置を占めた。しかし鎌倉時代に入ると慶派の台頭におされ,造仏界の主流から離れた。明円(みょうえん)の仏所が京都三条にあったためか,後世には三条仏所ともよばれた。
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…中央から除外された慶派の運命を変えたのは,治承の南都焼亡(1180)による興福寺,東大寺の復興造営と鎌倉武家政権の成立である。南都復興の最初に行われた興福寺の造営では,慶派は院派,円派に主要な堂塔の造仏をゆずらねばならず,慶派直系の康朝の子成朝は中央で閉ざされた道を鎌倉で開くべく下向している。しかし,つづく東大寺の造仏では,慶派がほとんど独占することになった。…
…日本の職業的仏師の最初といわれる定朝やその子,また弟子が,各自こうした仏所をつくっている。定朝の子覚助に始まり,鎌倉時代に運慶,快慶をはじめ多くの名工を生んだ七条仏所(慶派),弟子の長勢から出た三条仏所(円派),覚助の子院助に発する七条大宮仏所(院派)などがそれである。いずれも仏所の所在地を示しているようであるが,こうした呼称は鎌倉時代も後半以降のことのようで,当初はこうした呼び方ではなく,それぞれの大仏師の名を冠して呼んだのではないかと推定される。…
※「円派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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