広隆寺(読み)コウリュウジ

デジタル大辞泉 「広隆寺」の意味・読み・例文・類語

こうりゅう‐じ〔クワウリユウ‐〕【広隆寺】

京都市右京区太秦うずまさにある真言宗御室おむろ派の寺。山号は蜂岡山。推古天皇11年(603)秦河勝はたのかわかつ聖徳太子の命を奉じて創建したと伝える。国宝の弥勒菩薩半跏像をはじめ多数の文化財を所蔵する。太秦寺。太秦太子堂。秦公寺はたのきみでら蜂岡寺ほうこうじ川勝寺葛野寺かどのでら

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精選版 日本国語大辞典 「広隆寺」の意味・読み・例文・類語

こうりゅう‐じ クヮウリュウ‥【広隆寺】

京都市右京区太秦(うずまさ)にある真言宗御室派の大本山。山号は蜂岡(ほうこう)山。推古天皇一一年(六〇三秦河勝(はたのかわかつ)が創建。聖徳太子から下賜された仏像を安置。桂宮院本堂、阿彌陀如来坐像、千手観音立像、不空羂索観音立像、彌勒菩薩半跏像二体など国宝が多い。一〇月一〇日の牛祭は古来有名。蜂岡寺。太秦寺。太秦の太子堂。秦公寺(はたのきみでら)。秦寺。葛野寺(かどのでら)

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日本歴史地名大系 「広隆寺」の解説

広隆寺
こうりゆうじ

[現在地名]右京区太秦蜂岡町

ならびヶ丘の南西、太秦うずまさの中央北に位置する。真言宗御室派。蜂岡山と号し、本尊聖徳太子像。聖徳太子建立七大寺の一とされ、俗に太秦の太子たいし堂とも称される。京都最古の寺院。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔創建と秦氏〕

前身は蜂岡はちおか寺と称したといい、「日本書紀」推古天皇一一年一一月一日条に「我、尊き仏像有てり、誰か是の像を得て恭拝らむ」とあり、聖徳太子より仏像を授けられた秦河勝が創建したとされる。秦河勝は葛野かどの(のちの山城国葛野郡)一帯に勢力をもった渡来系氏族秦氏の長である。承和五年(八三八)一二月一五日の広隆寺縁起(朝野群載)は、「日本書紀」の前掲記事を引いたあとに「謹検案内、十一年冬、受仏像、小墾田宮御宇、推古天皇即位壬午之歳、奉為聖徳太子、大花上秦造河勝、所立広隆寺」と付け加え、河勝が仏像を授けられたのは「十一年冬」でも、広隆寺の建立そのものは「推古天皇即位壬午之歳」としている。この「壬午之歳」は推古天皇三〇年にあたる。創建を推古天皇三〇年とする説は広隆寺資財交替実録帳(寛平元年以降作成か。広隆寺文書)などにもみえる。聖徳太子が推古天皇三〇年二月に没し(中宮寺蔵「天寿国繍帳」銘)、その供養のため創建したと解すれば、三〇年説のほうに妥当性がある。

また「日本書紀」推古天皇三一年秋七月条には、新羅・任那の使者が訪れ、仏像一具および舎利・金塔・灌頂幡などを持参したが、「即仏像居於葛野秦寺、以余舎利金塔灌頂幡等、皆納四天王寺」とあるが、この記事を岩崎本「日本書紀」では推古天皇三〇年七月とする。推古天皇三〇年から三四年頃までの「日本書紀」には異同があることが指摘されているから、推古天皇三〇年創建説はより有力である。いずれにせよその時は太子の没した直後であり、「葛野秦寺」すなわち広隆寺への仏像安置は、そのことと関連があるはずである。本格的に広隆寺が営まれるようになるまでは、仏像は秦氏一族によって私的に祀られていたのであろう。なお同書推古天皇二四年七月条にも新羅から仏像が贈られたことが記され、「聖徳太子伝暦」によると蜂岡寺に安置され、時々光を放ったという。

〔移転〕

前掲の広隆寺縁起によると、創建当時の広隆寺は「九条河原里」と「同条荒見社里」にまたがる、合せて一四町ほどであったが、のちに「彼地頗狭隘」のため「五条荒蒔里」に移転したという。これが現広隆寺のある地である。しかし旧寺地と移転時期については、紙屋かみや(現天神川)上流右岸で天智朝とする説、あるいは京都市北区の平野神社の辺りで平安遷都の頃とする説、同区白梅はくばい町の北野廃寺とする説、右京区川勝せんしよう寺付近とする説などがあり、確定できない。

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改訂新版 世界大百科事典 「広隆寺」の意味・わかりやすい解説

広隆寺 (こうりゅうじ)

京都市右京区にある寺。山号は蜂岡山。別に太秦寺(うずまさでら),蜂岡寺,川勝寺,秦公寺(はたのきみでら)ともいい,俗に太秦の太子堂と呼ばれる。真言宗別格本山。秦河勝(はたのかわかつ)が,603年(推古11)に聖徳太子から仏像をさずかり,その像を安置するため622年に創建したのが当寺で,京都では最古の寺院の一つである。創建当初の寺地は,いまの場所から北東数kmの地点とされ,現地には平安遷都時あるいはそれ以前に移った。秦河勝は当寺付近の葛野(かどの)一帯の地域に勢力をもった渡来系氏族の秦氏の首領であって,秦公寺の別称が示すように,当寺は聖徳太子ゆかりの秦氏の氏寺として,歴史の幕をあけた。だが,818年(弘仁9)に全焼,840年ごろ(承和年間)に道昌僧都が再建したが,1150年(久安6)再び全焼,65年(永万1)藤原信頼が中心となって再興したが,往古の伽藍の制はいまはない。近世まで三論・真言兼学の寺で,朱印高は600石,塔頭(たつちゆう)10余ヵ寺を数えたが,明治維新によって諸院の多くは廃絶した。秦氏が衰退した以後の当寺は,秘蔵する仏像の霊験を宣伝して,信仰の寺として寺運を保った。信仰の中心は古代・中世・近世を通じて薬師信仰と聖徳太子信仰だった。病気平癒の現世利益を願う薬師信仰は,平安初期から当寺安置の薬師如来の霊験が世にきこえ,貴賤が群参し参籠する風が広くおこった。また,太子を神格化する聖徳太子信仰は,とくに鎌倉時代から高まり,当寺はその中心寺院の一つとなって寺運を一時もりかえした。太子像を安置した上宮王院(しようくうおういん)(太子堂)や桂宮院(けいくういん)の八角円堂が太子信仰の中心となり,当寺にちなむ種々の太子の伝承が生まれ,また足利将軍家歴代の保護も続いた。なお,有名な〈太秦の牛祭〉は,当寺の伽藍神である大酒(おおさけ)神社の祭礼で,毎年10月12日の夜に境内で行われる。当寺の僧侶5人が異形の面をつけ,そのうち1人は摩多羅神(またらじん)となって牛に乗って境内を一巡し,仮金堂の前の祭壇に登って奇妙な祭文を読みあげ,終わると堂の中に駆け込んでこの祭りは終わる。摩多羅神の異形な面をかたどった紙の面が,悪疫除災のお守りになるといわれ,参詣者に売られる。京都の三奇祭の一つである。摩多羅神は慈覚大師が入唐のとき,勧請し持ち帰った神だといわれ,はじめ叡山にまつられたが,のち当寺に移され,この祭りが生まれたという。
執筆者:

境内には八角円堂である桂宮院本堂(国宝・鎌倉時代)や講堂(重要文化財・1165)のほか,楼門,上宮王院本堂,宝物殿などがある。宝物殿では2体の木造弥勒菩薩半跏像(国宝・飛鳥時代),十二神将像(国宝・平安時代後期)をはじめ多くの古仏や絵画・書籍が公開されている。軽くほおに指をあてうつむきかげんに思いをこらす弥勒の姿は,隋様式になるもので,韓国国立中央博物館所蔵の銅造半跏像との類似が指摘されている。講堂内には,本尊阿弥陀如来座像,不空羂索観音立像,千手観音立像(いずれも国宝・平安時代初期)をはじめ地蔵菩薩像,虚空蔵菩薩像などが安置されている。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「広隆寺」の意味・わかりやすい解説

広隆寺
こうりゅうじ

京都市右京区太秦(うずまさ)蜂岡(はちおか)町にある真言宗御室(おむろ)派大本山。蜂岡山(はちおかざん)と号し、俗に太秦の太子堂といわれる。古くは蜂岡寺、太秦寺(うずまさでら)、秦寺(はたでら)、秦公寺(はたのきみでら)、葛野寺(かどのでら)などともいわれた。本尊は聖徳太子像。山城(やましろ)(京都府)最古の名刹(めいさつ)で、四天王寺、法隆寺などとともに聖徳太子ゆかりの日本七大寺の一つ。当寺一帯は古くから渡来人の秦氏が住んでいた地域で、その長、秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から仏像を賜り、それを本尊として603年(推古天皇11)に建立されたと『日本書紀』に伝える。古くは弥勒(みろく)像が本尊であった。その後、818年(弘仁9)と1150年(久安6)に焼失したが、そのつど再建された。

 現在の講堂(国重要文化財)は1165年(永万1)建立のもので、柱が朱塗りのため赤堂ともいう。堂内中央須弥壇(しゅみだん)には、中央に阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)(国宝)、左右に地蔵菩薩(じぞうぼさつ)坐像と虚空蔵(こくうぞう)菩薩坐像(2体とも国重要文化財)の両脇侍(わきじ)があり、その後方外陣(げじん)左右に千手観音(せんじゅかんのん)立像と不空羂索(ふくうけんじゃく)観音立像(いずれも国宝)の2体の巨像が安置されている。境内の西方にある桂宮院(けいきゅういん)本堂(国宝)は単層の八角円堂(夢殿形式)、檜皮葺(ひわだぶ)きの美しい屋根をもつ鎌倉時代の建築である。堂内には聖徳太子像などを安置する。上宮王院(じょうぐうおういん)太子殿は1730年(享保15)の建立で、堂内には太子自作と伝える本尊太子像を安置し、毎年11月22日に開扉される。寺宝の保管を図るため1922年(大正11)に建てられた霊宝殿には、仏画、仏像、工芸、古文書など多くの文化財が保存されている。なかでも、創建当初の本尊といわれる木造弥勒菩薩半跏(はんか)像「宝冠(ほうかん)弥勒」(国宝)は、赤松材を用いた一木造(いちぼくづくり)で、美しい微笑をたたえ思索にふける半跏思惟(しい)像として名高い。もう1体の弥勒菩薩半跏像(国宝)は楠の一木造で、泣いているような表情のため「泣き弥勒」、あるいは「宝髻(ほうけい)弥勒」とも称され、異国情緒豊かな像である。以上のほかに十二神将立像などの彫刻や、平安時代における広隆寺の規模を伝える『広隆寺縁起資財帳』1巻、『広隆寺資財交替実録帳』1巻などの国宝のほか、数多くの国重要文化財の絵画、彫刻、美術工芸品があり、文化財の宝庫として知られている。

 境内にある大酒(おおさけ)神社の祭礼(10月12日夜)「太秦の牛祭」は、松明(たいまつ)や篝火(かがりび)で照らされるなかを特異な面をつけた摩多羅(またら)神が牛に乗って練る奇祭として名高い。

[眞柴弘宗]

『『日本古寺巡礼 京都13 広隆寺』(1977・淡交社)』

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百科事典マイペディア 「広隆寺」の意味・わかりやすい解説

広隆寺【こうりゅうじ】

京都市右京区太秦(うずまさ)蜂岡町にある真言宗御室派の別格本山。太秦寺,太秦の太子堂とも。622年に秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子のために造立したと伝え,寺地一帯は古来秦氏が住んだ土地。818年と1150年に焼失。薬師信仰,太子信仰で知られる。現在の講堂は1165年藤原信頼が復興したときのもので,本尊の木造阿弥陀如来座像(平安前期),不空羂索(けんじゃく)観音立像(天平末期),千手観音立像(平安初期)などを安置。桂宮院(奥の院)は鎌倉時代建立の八角円堂。霊宝殿には2体の弥勒菩薩半跏像(飛鳥(あすか)),長勢作十二神将像(平安後期)をはじめ各時代にわたる仏像彫刻がある。10月12日の牛祭は境内にある大酒(おおさけ)神社の祭礼で摩多羅(まだら)神をまつる奇祭。
→関連項目右京[区]牛祭太秦京都[市]弥勒

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「広隆寺」の意味・わかりやすい解説

広隆寺
こうりゅうじ

京都市右京区太秦 (うずまさ) 蜂岡町所在の真言宗別格本山。山号を蜂岡山といい,蜂岡寺,太秦寺,秦 (はた) 寺,その他の呼称がある。秦河勝 (はたのかわかつ) が聖徳太子の命を受けて創立したという。天平年間,寺運は隆昌に向ったが,弘仁9 (818) 年焼失し,承和年間 (834~847) に道昌が再興。当時の寺観,仏像などは貞観 15 (873) 年の『広隆寺縁起資財帳』1巻 (国宝) に詳しい。久安6 (1150) 年再び火災にあい,永万1 (65) 年落慶供養会を行なった。寺内にある国宝,桂宮院本堂は,鎌倉時代に太子信仰の隆盛に伴い建立され,その中心として栄えた。飛鳥時代の『弥勒菩薩半跏像』をはじめ,伝長勢作『十二神将立像』,『阿弥陀如来坐像』『不空羂索観音立像』などの国宝彫刻,書跡,その他多数の文化財を収蔵する。

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旺文社日本史事典 三訂版 「広隆寺」の解説

広隆寺
こうりゅうじ

京都市右京区太秦 (うずまさ) にある真言宗の別格本山で,秦氏 (はたうじ) の氏寺
蜂岡山と号し,太秦寺 (うずまさでら) ・蜂岡寺ともいう。603年に渡来人の秦河勝 (はたのかわかつ) が聖徳太子よりもらいうけた仏像を安置するため創建したと伝える。国宝の『半跏思惟像』は弥勒菩薩 (みろくぼさつ) が半跏趺座して思考する形の飛鳥時代の仏像で,温和・清楚な美しさで知られる。アカマツでつくられ,朝鮮伝来説もある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「広隆寺」の解説

広隆寺
こうりゅうじ

秦寺・太秦(うずまさ)寺とも。京都市右京区にある古寺。現在は真言宗。蜂岡山と号す。秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から授けられた仏像を安置するためにたてたと伝える。平安時代初めに火災にあうがまもなく再建,12世紀に再び焼失。中世には聖徳太子信仰の寺として貴賤の参詣者を集めた。桂宮院(けいきゅういん)本堂は国宝。多数の寺宝をもち,飛鳥時代の弥勒菩薩像は国宝。

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デジタル大辞泉プラス 「広隆寺」の解説

広隆寺

京都府京都市右京区、太秦(うずまさ)にある寺院。真言宗御室派。山号は蜂岡山。本尊は聖徳太子。創建時の本尊と伝わる木造の弥勒菩薩半跏像は「宝冠弥勒」と呼ばれ、国宝指定第1号。

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世界大百科事典(旧版)内の広隆寺の言及

【飛鳥美術】より

…また伝統的な蘇我氏による百済路線から,あえて新羅路線に乗りかえ,新羅修好のうえに立って対隋外交を確保した。 603年新羅は仏像をもたらし,太子はこれを秦河勝(はたのかわかつ)に賜い,河勝は山背(やましろ)の太秦(うずまさ)に蜂岡寺(広隆寺)を造った。608年には新羅人が多数来朝し,610年新羅・任那の使者来朝に際して,秦河勝は接待役を命ぜられ,621年新羅は初めて表を奉って朝貢した(紀)。…

【秦河勝】より

秦氏の中心人物で山背(やましろ)の葛野(かどの)(現,京都市西部)に住した。《日本書紀》推古11年(603)11月条に河勝が聖徳太子から仏像を賜って,葛野に蜂岡寺(はちおかでら)(広隆寺)を建立したことと,同18年10月条に新羅,任那の使者が拝朝したとき,新羅使者の導者を務めたこと,また同皇極3年(644)7月条に東国の不尽河(富士川)のあたりの大生部多(おおうべのおおし)という者が,蚕に似た虫を,常世(とこよ)の神と称して村里の人々にまつらせ,富と長寿が得られるといって民衆を惑わしていたのを,河勝が打ちこらしたので,時の人が〈太秦(うずまさ)は神とも神と聞えくる常世の神を打ちきたますも〉と歌ったという伝えがみえる。《上宮聖徳太子伝補闕記》や《聖徳太子伝暦》にはそのほかに河勝が物部守屋討伐軍に加わって太子のために活躍したことや,はじめ大仁,のち小徳の冠位を与えられたことなどがみえるが確かではない。…

【摩多羅神】より

…多武峰常行堂にも同様の祭儀があったが,その神体は猿楽の翁面である。太秦(うずまさ)広隆寺の牛祭には,摩多羅神が牛に乗って出現し,こっけいな祭文を読みあげる。これは同寺の伽藍神でもある秦氏の祖神大僻(おおさけ)明神と重なりあっており,金春禅竹の《明宿集》によれば,この神は猿楽者の芸能神(宿神(しゆくしん))であった。…

※「広隆寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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