〈京都・山城寺院神社大事典〉
前身は
また「日本書紀」推古天皇三一年秋七月条には、新羅・任那の使者が訪れ、仏像一具および舎利・金塔・灌頂幡などを持参したが、「即仏像居於葛野秦寺、以余舎利金塔灌頂幡等、皆納于四天王寺」とあるが、この記事を岩崎本「日本書紀」では推古天皇三〇年七月とする。推古天皇三〇年から三四年頃までの「日本書紀」には異同があることが指摘されているから、推古天皇三〇年創建説はより有力である。いずれにせよその時は太子の没した直後であり、「葛野秦寺」すなわち広隆寺への仏像安置は、そのことと関連があるはずである。本格的に広隆寺が営まれるようになるまでは、仏像は秦氏一族によって私的に祀られていたのであろう。なお同書推古天皇二四年七月条にも新羅から仏像が贈られたことが記され、「聖徳太子伝暦」によると蜂岡寺に安置され、時々光を放ったという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市右京区にある寺。山号は蜂岡山。別に太秦寺(うずまさでら),蜂岡寺,川勝寺,秦公寺(はたのきみでら)ともいい,俗に太秦の太子堂と呼ばれる。真言宗別格本山。秦河勝(はたのかわかつ)が,603年(推古11)に聖徳太子から仏像をさずかり,その像を安置するため622年に創建したのが当寺で,京都では最古の寺院の一つである。創建当初の寺地は,いまの場所から北東数kmの地点とされ,現地には平安遷都時あるいはそれ以前に移った。秦河勝は当寺付近の葛野(かどの)一帯の地域に勢力をもった渡来系氏族の秦氏の首領であって,秦公寺の別称が示すように,当寺は聖徳太子ゆかりの秦氏の氏寺として,歴史の幕をあけた。だが,818年(弘仁9)に全焼,840年ごろ(承和年間)に道昌僧都が再建したが,1150年(久安6)再び全焼,65年(永万1)藤原信頼が中心となって再興したが,往古の伽藍の制はいまはない。近世まで三論・真言兼学の寺で,朱印高は600石,塔頭(たつちゆう)10余ヵ寺を数えたが,明治維新によって諸院の多くは廃絶した。秦氏が衰退した以後の当寺は,秘蔵する仏像の霊験を宣伝して,信仰の寺として寺運を保った。信仰の中心は古代・中世・近世を通じて薬師信仰と聖徳太子信仰だった。病気平癒の現世利益を願う薬師信仰は,平安初期から当寺安置の薬師如来の霊験が世にきこえ,貴賤が群参し参籠する風が広くおこった。また,太子を神格化する聖徳太子信仰は,とくに鎌倉時代から高まり,当寺はその中心寺院の一つとなって寺運を一時もりかえした。太子像を安置した上宮王院(しようくうおういん)(太子堂)や桂宮院(けいくういん)の八角円堂が太子信仰の中心となり,当寺にちなむ種々の太子の伝承が生まれ,また足利将軍家歴代の保護も続いた。なお,有名な〈太秦の牛祭〉は,当寺の伽藍神である大酒(おおさけ)神社の祭礼で,毎年10月12日の夜に境内で行われる。当寺の僧侶5人が異形の面をつけ,そのうち1人は摩多羅神(またらじん)となって牛に乗って境内を一巡し,仮金堂の前の祭壇に登って奇妙な祭文を読みあげ,終わると堂の中に駆け込んでこの祭りは終わる。摩多羅神の異形な面をかたどった紙の面が,悪疫除災のお守りになるといわれ,参詣者に売られる。京都の三奇祭の一つである。摩多羅神は慈覚大師が入唐のとき,勧請し持ち帰った神だといわれ,はじめ叡山にまつられたが,のち当寺に移され,この祭りが生まれたという。
執筆者:藤井 学
境内には八角円堂である桂宮院本堂(国宝・鎌倉時代)や講堂(重要文化財・1165)のほか,楼門,上宮王院本堂,宝物殿などがある。宝物殿では2体の木造弥勒菩薩半跏像(国宝・飛鳥時代),十二神将像(国宝・平安時代後期)をはじめ多くの古仏や絵画・書籍が公開されている。軽くほおに指をあてうつむきかげんに思いをこらす弥勒の姿は,隋様式になるもので,韓国国立中央博物館所蔵の銅造半跏像との類似が指摘されている。講堂内には,本尊阿弥陀如来座像,不空羂索観音立像,千手観音立像(いずれも国宝・平安時代初期)をはじめ地蔵菩薩像,虚空蔵菩薩像などが安置されている。
執筆者:益田 兼房
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
京都市右京区太秦(うずまさ)蜂岡(はちおか)町にある真言宗御室(おむろ)派大本山。蜂岡山(はちおかざん)と号し、俗に太秦の太子堂といわれる。古くは蜂岡寺、太秦寺(うずまさでら)、秦寺(はたでら)、秦公寺(はたのきみでら)、葛野寺(かどのでら)などともいわれた。本尊は聖徳太子像。山城(やましろ)(京都府)最古の名刹(めいさつ)で、四天王寺、法隆寺などとともに聖徳太子ゆかりの日本七大寺の一つ。当寺一帯は古くから渡来人の秦氏が住んでいた地域で、その長、秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から仏像を賜り、それを本尊として603年(推古天皇11)に建立されたと『日本書紀』に伝える。古くは弥勒(みろく)像が本尊であった。その後、818年(弘仁9)と1150年(久安6)に焼失したが、そのつど再建された。
現在の講堂(国重要文化財)は1165年(永万1)建立のもので、柱が朱塗りのため赤堂ともいう。堂内中央須弥壇(しゅみだん)には、中央に阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)(国宝)、左右に地蔵菩薩(じぞうぼさつ)坐像と虚空蔵(こくうぞう)菩薩坐像(2体とも国重要文化財)の両脇侍(わきじ)があり、その後方外陣(げじん)左右に千手観音(せんじゅかんのん)立像と不空羂索(ふくうけんじゃく)観音立像(いずれも国宝)の2体の巨像が安置されている。境内の西方にある桂宮院(けいきゅういん)本堂(国宝)は単層の八角円堂(夢殿形式)、檜皮葺(ひわだぶ)きの美しい屋根をもつ鎌倉時代の建築である。堂内には聖徳太子像などを安置する。上宮王院(じょうぐうおういん)太子殿は1730年(享保15)の建立で、堂内には太子自作と伝える本尊太子像を安置し、毎年11月22日に開扉される。寺宝の保管を図るため1922年(大正11)に建てられた霊宝殿には、仏画、仏像、工芸、古文書など多くの文化財が保存されている。なかでも、創建当初の本尊といわれる木造弥勒菩薩半跏(はんか)像「宝冠(ほうかん)弥勒」(国宝)は、赤松材を用いた一木造(いちぼくづくり)で、美しい微笑をたたえ思索にふける半跏思惟(しい)像として名高い。もう1体の弥勒菩薩半跏像(国宝)は楠の一木造で、泣いているような表情のため「泣き弥勒」、あるいは「宝髻(ほうけい)弥勒」とも称され、異国情緒豊かな像である。以上のほかに十二神将立像などの彫刻や、平安時代における広隆寺の規模を伝える『広隆寺縁起資財帳』1巻、『広隆寺資財交替実録帳』1巻などの国宝のほか、数多くの国重要文化財の絵画、彫刻、美術工芸品があり、文化財の宝庫として知られている。
境内にある大酒(おおさけ)神社の祭礼(10月12日夜)「太秦の牛祭」は、松明(たいまつ)や篝火(かがりび)で照らされるなかを特異な面をつけた摩多羅(またら)神が牛に乗って練る奇祭として名高い。
[眞柴弘宗]
『『日本古寺巡礼 京都13 広隆寺』(1977・淡交社)』
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
秦寺・太秦(うずまさ)寺とも。京都市右京区にある古寺。現在は真言宗。蜂岡山と号す。秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から授けられた仏像を安置するためにたてたと伝える。平安時代初めに火災にあうがまもなく再建,12世紀に再び焼失。中世には聖徳太子信仰の寺として貴賤の参詣者を集めた。桂宮院(けいきゅういん)本堂は国宝。多数の寺宝をもち,飛鳥時代の弥勒菩薩像は国宝。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…また伝統的な蘇我氏による百済路線から,あえて新羅路線に乗りかえ,新羅修好のうえに立って対隋外交を確保した。 603年新羅は仏像をもたらし,太子はこれを秦河勝(はたのかわかつ)に賜い,河勝は山背(やましろ)の太秦(うずまさ)に蜂岡寺(広隆寺)を造った。608年には新羅人が多数来朝し,610年新羅・任那の使者来朝に際して,秦河勝は接待役を命ぜられ,621年新羅は初めて表を奉って朝貢した(紀)。…
…秦氏の中心人物で山背(やましろ)の葛野(かどの)(現,京都市西部)に住した。《日本書紀》推古11年(603)11月条に河勝が聖徳太子から仏像を賜って,葛野に蜂岡寺(はちおかでら)(広隆寺)を建立したことと,同18年10月条に新羅,任那の使者が拝朝したとき,新羅使者の導者を務めたこと,また同皇極3年(644)7月条に東国の不尽河(富士川)のあたりの大生部多(おおうべのおおし)という者が,蚕に似た虫を,常世(とこよ)の神と称して村里の人々にまつらせ,富と長寿が得られるといって民衆を惑わしていたのを,河勝が打ちこらしたので,時の人が〈太秦(うずまさ)は神とも神と聞えくる常世の神を打ちきたますも〉と歌ったという伝えがみえる。《上宮聖徳太子伝補闕記》や《聖徳太子伝暦》にはそのほかに河勝が物部守屋討伐軍に加わって太子のために活躍したことや,はじめ大仁,のち小徳の冠位を与えられたことなどがみえるが確かではない。…
…多武峰常行堂にも同様の祭儀があったが,その神体は猿楽の翁面である。太秦(うずまさ)広隆寺の牛祭には,摩多羅神が牛に乗って出現し,こっけいな祭文を読みあげる。これは同寺の伽藍神でもある秦氏の祖神大僻(おおさけ)明神と重なりあっており,金春禅竹の《明宿集》によれば,この神は猿楽者の芸能神(宿神(しゆくしん))であった。…
※「広隆寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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