長谷寺(はせでら 奈良県)(読み)はせでら

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

長谷寺(はせでら 奈良県)
はせでら

奈良県桜井市初瀬(はせ)にある寺。真言(しんごん)宗豊山(ぶざん)派総本山。豊山神楽院長谷寺と号する。初瀬(はせ)寺とも書かれ、豊山寺、長谷観音(かんのん)とも称する。本尊は十一面観音。西国三十三所第8番札所。686年(朱鳥1)弘福寺(ぐふくじ)(川原寺)の道明上人(どうみょうしょうにん)が天武(てんむ)天皇の病気平癒祈願のため、法華(ほっけ)説相図銅板(千仏多宝塔を鋳出)を鋳造して西の岡に安置したことに端を発する。この説相図の仏像の様式や鋳造技術は白鳳(はくほう)時代の傑作である。727年(神亀4)聖武(しょうむ)天皇の勅願によって徳道上人(とくどうしょうにん)が東の岡に十一面観音を祀(まつ)る本堂(観音堂)を造立し、ここに長谷寺発展の基礎が築かれた。十一面観音は高さ8メートル余りの木像で、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に蓮華(れんげ)の入った水瓶(すいびょう)を持ち、観音菩薩(ぼさつ)の慈悲と地蔵(じぞう)菩薩救済の誓願をあわせ示現している。その後、観音霊場として長谷寺の名は天下に聞こえ、数多くの人々の信仰を集め隆盛の一途をたどった。しかし200年後の944年(天慶7)朱雀(すざく)天皇の代に火災にあい、堂塔・仏像が灰燼(かいじん)に帰したのをはじめ、室町末期の世相の混乱に加え、1536年(天文5)の火災によって一宇を残さず炎上、衰微していった。

 現在の本尊十一面観音立像は1538年東大寺仏生院実清良覚仏師によって造像された。1588年(天正16)大和大納言(やまとだいなごん)羽柴秀長(はしばひでなが)の招請により根来寺(ねごろじ)の学頭専誉(せんよ)がこの寺に住し、堂舎の造営を始めた。江戸時代以後は徳川幕府の庇護(ひご)を受け、以前にも勝る壮麗なる七堂伽藍(がらん)を造営した。現在の本堂(国宝)は1650年(慶安3)徳川家光(とくがわいえみつ)の命により造営されたもので、京都清水(きよみず)寺の本堂と同じ舞台造りである。学山としての長谷寺は密教および倶舎(くしゃ)・唯識(ゆいしき)の学匠が輩出し、諸宗学徒も多く参集してにぎわった。『法華経(ほけきょう)』28巻、般若心経(はんにゃしんぎょう)付蒔絵(まきえ)経箱、法華説相図銅板などの国宝、銅造十一面観音立像、木造不動明王坐像(ざぞう)、木造地蔵菩薩立像、絹本着色阿弥陀来迎(あみだらいごう)図、絹本着色浄土曼荼羅(まんだら)図、宋(そう)版一切経などの国重要文化財がある。2月14日に行われる追儺会(ついなえ)「だだおし」は有名である。桜の名所および150種7000株のボタンの名所として名高く、古来多くの和歌、俳句、連歌(れんが)などに詠まれた。

[野村全宏]


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