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長谷川派 はせがわは

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

長谷川派
はせがわは

桃山時代に活躍した長谷川等伯を祖とする画派。等伯には久蔵,宗宅,左近,宗也の4男子があったが,そのうち最も天分に恵まれていた久蔵が 26歳で早世し,宗宅が一時家督を継いだ。宗宅は等後と号し,法橋に叙されて『秋草図屏風』 (南禅寺) などを残しているが,等伯の没した翌年に死去。結局,3男左近が家督を継いだらしく,父等伯が「自雪舟五代」を称したあとをうけて「自雪舟六代」を標榜した。左近には『三十六歌仙図』扁額 (海津天神社) ,『牧牛,野馬図屏風』 (ボストン美術館) などがあるが,その作風は等伯の画法を受継ぎながらより装飾性を増し,宗達派の影響があるともいわれる。4男宗也は先の3子の異母弟にあたり『柳橋水車図屏風』などを残すが,画技は4人のうち最も劣った。その他,等伯の活躍期の長谷川派には,等伯の門人で女婿となった等秀や,江戸に下り香取神社や伊達家の瑞巌寺の障屏画を制作した等胤のほか,等誉,等二,等仁,等圜ら多数の画家がいた。智積院 (旧祥雲寺) ,三宝院,妙蓮寺,禅林寺などの障屏画は,これら長谷川派の作品と考えられている。初期長谷川派は狩野派よりも色彩感覚にすぐれ,斬新な意匠と詩情に満ちた作風を特徴とするが,等伯以後はすぐれた画家が出ず,狩野派に対抗しうる大きな画派とはならなかった。

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世界大百科事典 第2版の解説

はせがわは【長谷川派】

桃山~江戸時代の漢画派。長谷川等伯を祖とし,江戸初期までは画家名,作品とも知られているが,中期以降のことはあまり明らかでない。初代等伯とその子久蔵は,法華宗関係の仏画,肖像画,障壁画等のほか,禅宗関係の水墨画,頂相(ちんぞう),障壁画等にも腕を振るい,狩野派,海北派,雲谷派,曾我派と並び称された。大ぶりで豪華な桃山の金碧障屛画(きんぺきしようへいが)の中で,ひときわのびやかなフォルムと明快な色彩,金地感覚を表し,法華関係者や町衆に受け入れられたのみならず,公卿・武家の需要にも応ずる広い画作の幅を持っていた。

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大辞林 第三版の解説

はせがわは【長谷川派】

長谷川等伯を祖とし、その画風を伝える日本画の一派。等伯以後、雪旦・雪堤らが出た。長谷川流。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

長谷川派
はせがわは

桃山から江戸初期の漢画系画派。桃山時代の長谷川等伯(とうはく)を始祖とするためこうよばれる。等伯には4人の子があったが、長男・久蔵(きゅうぞう)(1568―93)は天賦の才に恵まれながらも夭折(ようせつ)、また次男の宗宅(そうたく)(等後、?―1611)も法橋(ほっきょう)に任ぜられたものの、父の後を追うように没したため、家督を継いだのは三男の左近(さこん)(等重)であった。彼は、父等伯が「雪舟五代」を称した後を受けて雪舟六代を標榜(ひょうぼう)し、等伯様式を継承しながらも、同時代の俵屋宗達(そうたつ)からの影響をうかがわせる作品を残し、代表作に『三十六歌仙図扁額(へんがく)』(滋賀・海津神社)がある。なお長谷川派の画人には、『柳橋(りゅうきょう)図屏風(びょうぶ)』を描いた四男の宗也(そうや)(1590―1667)や長谷川宗圜(そうかん)などがあったが、しだいに町絵師的性格を強め、流派として組織的活動をどの程度行っていたか不明である。[榊原 悟]
『土居次義著『近世日本絵画の研究』(1970・美術出版社)』

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