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長谷川等伯 はせがわとうはく

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

長谷川等伯
はせがわとうはく

[生]天文8(1539).能登,七尾
[没]慶長15(1610).2.24. 江戸?
桃山時代の画家,長谷川派の祖。実父は七尾城主畠山氏の家臣奥村文之丞宗道。幼時に等春門人で染色を業とする長谷川宗清の養子となる。初名久六,又四郎,のち帯刀 (たてわき) 。号は初め信春,のち等伯。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

長谷川等伯

故郷の能登国(石川県)七尾を拠点に信春の名で仏画などを手がけていたが、30代で京に上って堺商人や千利休と親交を結び、豊臣秀吉に引き立てられ、狩野永徳らの狩野派と対抗した。智積院(ちしゃくいん)所蔵の国宝「楓図壁貼付(かえでずかべはりつけ)」は金碧画(きんぺきが)の代表作。東京国立博物館所蔵の国宝「松林(しょうりん)図屏風」は日本の水墨画の最高傑作と評される。

(2015-04-21 朝日新聞 朝刊 3社会)

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デジタル大辞泉の解説

はせがわ‐とうはく〔はせがは‐〕【長谷川等伯】

[1539~1610]桃山時代の画家。能登の人。名は又四郎、のち帯刀(たてわき)。初め信春と号して仏画を描いたが、のち京都に出て諸派の画法を学び、名も等伯と改め、日本独自の水墨画様式を確立。また、華麗な金碧(きんぺき)障壁画も手がけ、狩野派に並ぶ長谷川派を形成した。作「松林図屏風」など。

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百科事典マイペディアの解説

長谷川等伯【はせがわとうはく】

桃山時代の画家。能登の人。初め信春と号して仏画肖像画を制作,のち上洛し狩野派雪舟を学び,また大徳寺,本法寺等で牧谿(もっけい)をはじめ宋元,室町の水墨画にふれ,金碧(きんぺき)障壁画と水墨画の両分野に独自の画風を創造した。
→関連項目相国寺妙心寺

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

長谷川等伯 はせがわ-とうはく

1539-1610 織豊-江戸時代前期の画家。
天文(てんぶん)8年生まれ。長谷川派の祖。はじめ信春(しんしゅん)の号で仏画,肖像画を制作。のち京都で狩野(かのう)派の画風や雪舟の水墨画などをまなび,金碧(きんぺき)障壁画と水墨画に独自の画風を創造した。前者に智積院(ちしゃくいん)の「楓(かえで)図」,後者に「松林図屏風(びょうぶ)」「枯木猿猴(えんこう)図」などがある。日通が筆録した「等伯画説」は日本初の画論。慶長15年2月24日死去。72歳。能登(のと)(石川県)出身。本姓は奥村。通称は又四郎。

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朝日日本歴史人物事典の解説

長谷川等伯

没年:慶長15.2.24(1610.3.19)
生年:天文8(1539)
桃山時代の画家。長谷川派の祖。能登(石川県)七尾城主畠山氏の家臣奥村文之丞宗道の子。のち染物業を営む長谷川宗清(道浄)の養子になったと伝えられる。画は,雪舟門弟の等春に師事したという宗清から学んだらしい。養家が日蓮宗の熱心な信徒であったため,又四郎信春と名乗った七尾時代は,「涅槃図」(妙成寺蔵),「十二天図」(正覚寺蔵),「日蓮上人像」(大法寺蔵)など,おもに日蓮宗関係の仏画や肖像画を制作。元亀2(1571)年養父母の他界を機に,菩提寺(本延寺)の本寺に当たる本法寺を頼って上洛。翌年には同寺8世の「日尭上人像」(本法寺蔵)を描いたが,その落款により信春を等伯の子久蔵とみなしてきた江戸時代の画伝類の誤りが正された(土居次義著『長谷川等伯・信春同人説』)。上洛後,等伯の号を用いる50歳ごろまでの動向には不明な点が多いが,千利休や本法寺10世日通を介して,堺の数奇者達と交わって数多くの宋元名画に触れ,また大徳寺春屋宗園と親交を結んで同寺の牧谿筆「観音猿鶴図」や真珠庵の曾我蛇足の障壁画などを細見する機会を得た。旧大徳寺三玄院「山水図襖絵」(円徳院,楽美術館現蔵),「枯木猿猴図屏風」(竜泉院蔵),「竹林猿猴図屏風」(相国寺蔵)などは,そうした中国や日本の古画の観照体験を経て生まれた作品で,「松林図屏風」(東京国立博物館蔵)はわが国水墨画の最高傑作と評される。文禄2(1593)年ごろ,一門の弟子を率いて行った祥雲寺(豊臣秀吉建立)の障壁画(智積院現蔵)制作では,信春時代から手がけていた着色画に,当時流行の金地極彩色の手法や大画面構図方式を採り入れて,狩野派以上に生新で躍動的な金碧装飾画を作った。聚落第(1587)に揮毫したという記録もあり,長谷川派はこのころには狩野派に拮抗する画派に成長していた。同派の障壁画は妙蓮寺,禅林寺など法華寺院にも多く残っている。慶長4(1599)年本法寺寄進の「涅槃図」(現存)以降,「自雪舟五代」を落款に冠して雪舟正系を標榜,雲谷等顔と雪舟の正系を争ったとも伝えられる。9年法橋,翌年法眼叙任,15年徳川家康に召されて江戸に赴いたが,道中病を得,到着後まもなく没した。等伯の談を日通が綴った『等伯画説』は,等伯の絵画観を示す資料として貴重である。<参考文献>土居次義『長谷川等伯』,山根有三「等伯研究序説」(『美術史』1号),源豊宗考註『等伯画説』

(川本桂子)

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世界大百科事典 第2版の解説

はせがわとうはく【長谷川等伯】

1539‐1610(天文8‐慶長15)
桃山~江戸時代初期の画家。名は信春(しんしゆん),又四郎,帯刀(たてわき)など。能登国七尾の生れで,染色業者長谷川宗清の養子となり,画事を養父に習った。宗清は能登地方に伝わった雪舟流の画法,とりわけ等春(とうしゆん)の系脈に連なり,信春も初めは等春風の水墨画を描いたと推定される。長谷川家は法華宗で能登における菩提寺は本延寺。その関係で,法華関係の仏画,肖像画などを多く手がけた。能登地方に現存する信春の画跡には《日乗上人像》(妙成寺),《日蓮上人像》(大法寺),《十二天像》(正覚院),《達磨図》(竜門寺),《十六羅漢図》(霊泉寺),《涅槃(ねはん)図》(妙成寺)などがあり,すでに20歳代で絵仏師としても水墨画家としても,一地方画家の限界を超える力量を見せている。

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大辞林 第三版の解説

はせがわとうはく【長谷川等伯】

1539~1610) 安土桃山時代の画家。能登の人。名は又四郎・信春など。仏画師であったが、のち京に出て独自の日本的水墨画様式を展開。また、装飾的な金碧障壁画も描き、長谷川派を形成し狩野派に対抗した。代表作「松林図屛風」「枯木猿猴図」

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

長谷川等伯
はせがわとうはく
(1539―1610)

桃山時代の画家。長谷川派の祖。能登(のと)国(石川県)七尾(ななお)に生まれる。実父は七尾城主畠山(はたけやま)家の家臣・奥村文之丞、養父は等春(とうしゅん)門人・長谷川宗清で染色を業とした。幼名を又四郎、のち帯刀(たてわき)。若年期信春(しんしゅん)と号し、初めは生国で仏画を中心に制作、その作品が現在能登地方一帯に相当数残されている。1572年(元亀3)京都本法寺の『日堯上人(にちぎょうしょうにん)像』を信春の名で描いており、これ以前に上洛(じょうらく)していたものと思われる。のちまもなく等伯と号し、当代漢画壇に独自の地位を占めた。83年(天正11)ごろ織田信長の菩提(ぼだい)所・総見院、89年には三玄院など、大徳寺諸塔頭(たっちゅう)の客殿襖絵(ふすまえ)や、同じく大徳寺三門の天井画・柱絵を描いた。93年(文禄2)一門を率いて、豊臣(とよとみ)秀吉が愛児棄丸(すてまる)の菩提を弔うために創建した祥雲禅寺(しょううんぜんじ)の障壁画(現京都・智積院(ちしゃくいん)障壁画、国宝)を制作。金地に濃彩を用いた絢爛(けんらん)豪華なその作品は、桃山盛期を代表する傑作の一つに数えられる。その後『千利休(せんのりきゅう)像』(京都・表千家蔵)や『春屋宗園(しゅんおくそうえん)像』(三玄院)、『日通上人像』(本法寺)などの肖像画、妙心寺隣華(りんげ)院、大徳寺真珠庵(あん)、南禅寺金地(こんち)院および天授庵、禅林寺など京洛諸寺院の襖絵を描いた。1604年(慶長9)法橋(ほっきょう)に、翌年法眼(ほうげん)に叙せられる。慶長(けいちょう)15年2月24日、徳川家康の召に応じて下向した江戸の地で客死。菩提寺は本法寺教行院、法名厳浄院等伯日妙居士(こじ)
 絵の師については、上洛後、狩野松栄(かのうしょうえい)、曽我紹祥(そがしょうしょう)、等春などについたと伝えられるが、結局は雪舟へと傾倒し、自ら「自雪舟五代」を称した。さらに宋元(そうげん)水墨画、とくに牧谿(もっけい)様式を学んでしだいに独自の画境を開く。信春時代は、自らもその門徒であった日蓮(にちれん)宗関係の仏画や肖像画などの極彩色画が主であるが、等伯時代には、智積院襖絵などの例外を除いて水墨画がほとんどである。そして晩年にはしだいに画風を硬化させ、いたずらに筆力を誇示した作もみられるが、旺盛(おうせい)な制作意欲は終生変わることがなかった。代表作には、前掲以外に、わが国の水墨画史上最大の傑作の一つに数えられる『松林図屏風(びょうぶ)』(国宝、東京国立博物館)をはじめ『花鳥図屏風』(岡山・妙覚寺)、『枯木猿猴(こぼくえんこう)図』(京都・竜泉庵)、『竹林猿猴図屏風』(京都・相国寺)などがある。
 なお、本法寺の日通上人が等伯の話を筆録した『等伯画説』は、わが国最古の本格的画論書として貴重である。等伯の子には、久蔵(きゅうぞう)、宗宅(そうたく)、左近(さこん)、宗也(そうや)の4子が知られ、長男久蔵は夭折(ようせつ)したが、名作智積院襖絵のうち『桜図』が彼の筆と推定されており、兄弟のうちでもっとも優れた画人であった。[榊原 悟]
『土居次義編『日本の美術87 長谷川等伯』(1973・至文堂) ▽中島純司著『日本美術絵画全集10 長谷川等伯』(1979・集英社)』

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世界大百科事典内の長谷川等伯の言及

【安土桃山時代美術】より

…また秀吉が愛児棄丸の菩提を弔って1593年(文禄2)に造営した祥雲寺客殿は,天瑞寺にまさる豪壮なものであった。その建物は残らないが,長谷川等伯とその一門による四季の樹木と草花を画題とした金碧障壁画は現在智積院に残り,永徳の巨大樹表現にやまと絵草花図の優美さを加えて,自然への親和の感情を示している。自然美のなかに浄土のイメージを見る日本の伝統的自然観が,現世肯定の時代精神と結びついて,このような単なる室内装飾の域をこえた時代精神の表現となっているのである。…

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