長谷川等伯(読み)ハセガワトウハク

デジタル大辞泉 「長谷川等伯」の意味・読み・例文・類語

はせがわ‐とうはく〔はせがは‐〕【長谷川等伯】

[1539~1610]桃山時代の画家。能登の人。名は又四郎、のち帯刀たてわき。初め信春と号して仏画を描いたが、のち京都に出て諸派の画法を学び、名も等伯と改め、日本独自の水墨画様式を確立。また、華麗な金碧きんぺき障壁画も手がけ、狩野派に並ぶ長谷川派を形成した。作「松林図屏風」など。

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精選版 日本国語大辞典 「長谷川等伯」の意味・読み・例文・類語

はせがわ‐とうはく【長谷川等伯】

  1. 桃山時代の画家。長谷川派の祖。名は信春。能登国(石川県)の人。仏画師として出発。上洛後、雪舟・牧谿らに私淑し狩野派をも取り入れ、日本独自の水墨画様式と颯爽とした金碧画様式を完成した。永徳・友松とともに桃山時代の代表的画家。慶長一〇年(一六〇五)法眼に叙せられた。代表作「松林図屏風」「枯木猿猴図」「智積院楓図」など。天文八~慶長一五年(一五三九‐一六一〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「長谷川等伯」の意味・わかりやすい解説

長谷川等伯
はせがわとうはく
(1539―1610)

桃山時代の画家。長谷川派の祖。能登(のと)国(石川県)七尾(ななお)に生まれる。実父は七尾城主畠山(はたけやま)家の家臣・奥村文之丞、養父は等春(とうしゅん)門人・長谷川宗清で染色を業とした。幼名を又四郎、のち帯刀(たてわき)。若年期信春(しんしゅん)と号し、初めは生国で仏画を中心に制作、その作品が現在能登地方一帯に相当数残されている。1572年(元亀3)京都本法寺の『日堯上人(にちぎょうしょうにん)像』を信春の名で描いており、これ以前に上洛(じょうらく)していたものと思われる。のちまもなく等伯と号し、当代漢画壇に独自の地位を占めた。83年(天正11)ごろ織田信長の菩提(ぼだい)所・総見院、89年には三玄院など、大徳寺諸塔頭(たっちゅう)の客殿襖絵(ふすまえ)や、同じく大徳寺三門の天井画・柱絵を描いた。93年(文禄2)一門を率いて、豊臣(とよとみ)秀吉が愛児棄丸(すてまる)の菩提を弔うために創建した祥雲禅寺(しょううんぜんじ)の障壁画(現京都・智積院(ちしゃくいん)障壁画、国宝)を制作。金地に濃彩を用いた絢爛(けんらん)豪華なその作品は、桃山盛期を代表する傑作の一つに数えられる。その後『千利休(せんのりきゅう)像』(京都・表千家蔵)や『春屋宗園(しゅんおくそうえん)像』(三玄院)、『日通上人像』(本法寺)などの肖像画、妙心寺隣華(りんげ)院、大徳寺真珠庵(あん)、南禅寺金地(こんち)院および天授庵禅林寺など京洛諸寺院の襖絵を描いた。1604年(慶長9)法橋(ほっきょう)に、翌年法眼(ほうげん)に叙せられる。慶長(けいちょう)15年2月24日、徳川家康の召に応じて下向した江戸の地で客死。菩提寺は本法寺教行院、法名厳浄院等伯日妙居士(こじ)。

 絵の師については、上洛後、狩野松栄(かのうしょうえい)、曽我紹祥(そがしょうしょう)、等春などについたと伝えられるが、結局は雪舟へと傾倒し、自ら「自雪舟五代」を称した。さらに宋元(そうげん)水墨画、とくに牧谿(もっけい)様式を学んでしだいに独自の画境を開く。信春時代は、自らもその門徒であった日蓮(にちれん)宗関係の仏画や肖像画などの極彩色画が主であるが、等伯時代には、智積院襖絵などの例外を除いて水墨画がほとんどである。そして晩年にはしだいに画風を硬化させ、いたずらに筆力を誇示した作もみられるが、旺盛(おうせい)な制作意欲は終生変わることがなかった。代表作には、前掲以外に、わが国の水墨画史上最大の傑作の一つに数えられる『松林図屏風(びょうぶ)』(国宝、東京国立博物館)をはじめ『花鳥図屏風』(岡山・妙覚寺)、『枯木猿猴(こぼくえんこう)図』(京都・竜泉庵)、『竹林猿猴図屏風』(京都・相国寺)などがある。

 なお、本法寺の日通上人が等伯の話を筆録した『等伯画説』は、わが国最古の本格的画論書として貴重である。等伯の子には、久蔵(きゅうぞう)、宗宅(そうたく)、左近(さこん)、宗也(そうや)の4子が知られ、長男久蔵は夭折(ようせつ)したが、名作智積院襖絵のうち『桜図』が彼の筆と推定されており、兄弟のうちでもっとも優れた画人であった。

[榊原 悟]

『土居次義編『日本の美術87 長谷川等伯』(1973・至文堂)』『中島純司著『日本美術絵画全集10 長谷川等伯』(1979・集英社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「長谷川等伯」の意味・わかりやすい解説

長谷川等伯 (はせがわとうはく)
生没年:1539-1610(天文8-慶長15)

桃山~江戸時代初期の画家。名は信春(しんしゆん),又四郎,帯刀(たてわき)など。能登国七尾の生れで,染色業者長谷川宗清の養子となり,画事を養父に習った。宗清は能登地方に伝わった雪舟流の画法,とりわけ等春(とうしゆん)の系脈に連なり,信春も初めは等春風の水墨画を描いたと推定される。長谷川家は法華宗で能登における菩提寺は本延寺。その関係で,法華関係の仏画,肖像画などを多く手がけた。能登地方に現存する信春の画跡には《日乗上人像》(妙成寺),《日蓮上人像》(大法寺),《十二天像》(正覚院),《達磨図》(竜門寺),《十六羅漢図》(霊泉寺),《涅槃(ねはん)図》(妙成寺)などがあり,すでに20歳代で絵仏師としても水墨画家としても,一地方画家の限界を超える力量を見せている。30歳代初めに上京,途中越前一乗谷に立ち寄り,曾我派と接触をもったと伝えるが明らかでない。

 京都では本延寺の縁で本法寺の塔頭(たつちゆう)教行院を宿坊とし,まず法華関係の縁故から画事を手がけ,《日尭上人像》(本法寺)などを描く。一方,《花鳥図屛風》(妙覚寺),《牧馬図屛風》(東京国立博物館)など,花鳥獣図や風俗図,また,《武田信玄像》(成慶院),《伝名和長年像》(東京国立博物館)など武将肖像画も手がけ,その技量を武家社会にも認めさせた。やがて,大徳寺に出入りし,利休をはじめ堺の茶人たちとも交友をもち,画作の場は禅寺にも広がった。1583年ころ大徳寺総見院の障壁画,次いで同三門の天井・柱絵を制作。このころから等伯と改号,同三玄院の《山水図襖》(円徳院・楽家)では,大徳寺に残る宋元画や真珠庵の曾我派の襖などに対する研鑽から,独特の余白造成と真行草の使い分けに成功し,水墨画を近世的意匠に高めた。この方向から,50~60歳代にかけて,《松林図屛風》(東京国立博物館),《老松図襖》(金地院),《猿猴(えんこう)竹林図屛風》(相国寺),《枯木猿猴図》(竜泉庵)などの水墨画の傑作が生まれた。

 一方,濃彩の花鳥獣・人物への研鑽も怠らず,1591年秀吉が長子鶴松の菩提のため建立した祥雲禅寺の障壁画制作には,一門を率いてあたり,《楓図襖》《松に黄蜀葵図》(ともに現在は智積院)など桃山美術の記念碑的大作をものにした。この時《桜図襖》で画名を上げた息子久蔵が翌年没し,上京以来のライバル狩野派との抗争にも疲れたらしく,晩年には本法寺再興に尽力して本堂天井画や《仏涅槃図》を描き,また《山水図襖》(隣華院),《商山四皓・猪頭蜆子図襖》(真珠庵),《禅機図襖》(天授庵)など,単純で象徴的な筆線の水墨画に画境を深めた。1604年法橋,一説では翌年法眼となり,10年徳川家康の招きで江戸に下り,まもなく没したという。画系を求める当時の風潮から“雪舟5代”を名のることがあり,画作の場を求めて積極的に運動した気配もあるが,いずれも当時強勢を誇る狩野一門に伍して生きのびるための自然な成り行きである。画風もまた狩野派を意識した宋元画摂取,あるいは永徳風巨大樹木を用いた和漢総合様式に特色があり,のびやかな形態と鮮やかな色彩感覚は狩野派をしのぐものがある。
長谷川派
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朝日日本歴史人物事典 「長谷川等伯」の解説

長谷川等伯

没年:慶長15.2.24(1610.3.19)
生年:天文8(1539)
桃山時代の画家。長谷川派の祖。能登(石川県)七尾城主畠山氏の家臣奥村文之丞宗道の子。のち染物業を営む長谷川宗清(道浄)の養子になったと伝えられる。画は,雪舟門弟の等春に師事したという宗清から学んだらしい。養家が日蓮宗の熱心な信徒であったため,又四郎信春と名乗った七尾時代は,「涅槃図」(妙成寺蔵),「十二天図」(正覚寺蔵),「日蓮上人像」(大法寺蔵)など,おもに日蓮宗関係の仏画や肖像画を制作。元亀2(1571)年養父母の他界を機に,菩提寺(本延寺)の本寺に当たる本法寺を頼って上洛。翌年には同寺8世の「日尭上人像」(本法寺蔵)を描いたが,その落款により信春を等伯の子久蔵とみなしてきた江戸時代の画伝類の誤りが正された(土居次義著『長谷川等伯・信春同人説』)。上洛後,等伯の号を用いる50歳ごろまでの動向には不明な点が多いが,千利休や本法寺10世日通を介して,堺の数奇者達と交わって数多くの宋元名画に触れ,また大徳寺の春屋宗園と親交を結んで同寺の牧谿筆「観音猿鶴図」や真珠庵の曾我蛇足の障壁画などを細見する機会を得た。旧大徳寺三玄院「山水図襖絵」(円徳院,楽美術館現蔵),「枯木猿猴図屏風」(竜泉院蔵),「竹林猿猴図屏風」(相国寺蔵)などは,そうした中国や日本の古画の観照体験を経て生まれた作品で,「松林図屏風」(東京国立博物館蔵)はわが国水墨画の最高傑作と評される。文禄2(1593)年ごろ,一門の弟子を率いて行った祥雲寺(豊臣秀吉建立)の障壁画(智積院現蔵)制作では,信春時代から手がけていた着色画に,当時流行の金地極彩色の手法や大画面構図方式を採り入れて,狩野派以上に生新で躍動的な金碧装飾画を作った。聚落第(1587)に揮毫したという記録もあり,長谷川派はこのころには狩野派に拮抗する画派に成長していた。同派の障壁画は妙蓮寺,禅林寺など法華寺院にも多く残っている。慶長4(1599)年本法寺寄進の「涅槃図」(現存)以降,「自雪舟五代」を落款に冠して雪舟正系を標榜,雲谷等顔と雪舟の正系を争ったとも伝えられる。9年法橋,翌年法眼叙任,15年徳川家康に召されて江戸に赴いたが,道中病を得,到着後まもなく没した。等伯の談を日通が綴った『等伯画説』は,等伯の絵画観を示す資料として貴重である。<参考文献>土居次義『長谷川等伯』,山根有三「等伯研究序説」(『美術史』1号),源豊宗考註『等伯画説』

(川本桂子)

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百科事典マイペディア 「長谷川等伯」の意味・わかりやすい解説

長谷川等伯【はせがわとうはく】

桃山時代の画家。能登の人。初め信春と号して仏画肖像画を制作,のち上洛し狩野派雪舟を学び,また大徳寺,本法寺等で牧谿(もっけい)をはじめ宋元,室町の水墨画にふれ,金碧(きんぺき)障壁画と水墨画の両分野に独自の画風を創造した。1593年祥雲寺(現在の智積(ちしゃく)院)の方丈に子の久蔵〔1568-1593〕はじめ一派を率いて四季花木図襖絵(ふすまえ)を制作。ほかに《松林図屏風》や《枯木猿猴図》(竜泉庵)等が有名。等伯の家は代々日蓮宗徒で,本法寺の日通上人と親しく,同寺に《涅槃図》や《日通上人像》があるほか,日通が筆録した《等伯画説》は日本最初の画論。
→関連項目相国寺妙心寺

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長谷川等伯」の意味・わかりやすい解説

長谷川等伯
はせがわとうはく

[生]天文8(1539).能登,七尾
[没]慶長15(1610).2.24. 江戸?
桃山時代の画家,長谷川派の祖。実父は七尾城主畠山氏の家臣奥村文之丞宗道。幼時に等春門人で染色を業とする長谷川宗清の養子となる。初名久六,又四郎,のち帯刀 (たてわき) 。号は初め信春,のち等伯。能登在住時代には正覚寺『十二天像』,大法寺『三十番神図』,妙成寺『涅槃図』『日乗上人像』などの仏画,肖像画を中心に制作。ほかにやまと絵や中国の花鳥画などを学んで絵の修練を積んだ。元亀2 (1571) 年頃上京,本法寺教行院を宿坊とし,翌年本法寺8世『日堯上人像』を描く。上京後もしばらくは「信春」印を用い,妙覚寺『花鳥図屏風』,成慶院『武田信玄像』,東京国立博物館蔵『伝名和長年像』『牧馬図屏風』などの優品を残す。千利休や春屋宗園と親交を結び,大徳寺総見院,三玄院の襖絵や三門天井画を制作。この頃すでに狩野派に対抗しうる画派に成長し,文禄2 (93) 年には一門の画家を率いて,祥雲寺 (現智積院) に豪放華麗な金碧花木図を描いた。慶長年間には妙心寺隣華院,大徳寺真珠庵,高桐院,南禅寺天授庵に水墨画の山水,人物,花鳥障屏画を描いたほか,多数の遺品がある。慶長9 (1604) 年法橋,翌年法眼に叙された。狩野派や曾我派に絵を学んだという説もあるが,むしろ中国,宋代の牧谿画の影響が大きく,抒情性豊かな国宝『松林図屏風』 (東京国立博物館) は日本的水墨画の最高傑作と賞される。しかし最晩年の等伯画には梁楷風の粗放な作品が多い。日蓮宗の信者で本法寺の日通上人と親交が深く,上人が筆録した『等伯画説』は彼の画論として著名。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「長谷川等伯」の解説

長谷川等伯
はせがわとうはく

1539~1610.2.24

桃山時代の画家。長谷川派の祖。名あるいは号に又四郎・帯刀・信春など。能登国七尾生れ。実父は七尾城主畠山家家臣奥村文之丞と伝えられ,染色業を営む長谷川宗清の養子。20代半ばから能登で仏画などを制作,1571年(元亀2)頃上洛。本法寺に「日尭上人(にちぎょうしょうにん)像」を描く。その後三玄院襖絵(円徳院・楽家蔵,重文)など大徳寺諸塔頭に作画し,91年(天正19)建立の祥雲寺障壁画(現,智積(ちしゃく)院蔵,国宝)では一門を率いて独自の金碧画様式を形成。一方,宋元画に学び「松林図屏風」(東京国立博物館蔵,国宝)で水墨画の和様化の極致を示した。晩年まで制作にはげみ,江戸で病没。「等伯画説」は画論として貴重。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長谷川等伯」の解説

長谷川等伯 はせがわ-とうはく

1539-1610 織豊-江戸時代前期の画家。
天文(てんぶん)8年生まれ。長谷川派の祖。はじめ信春(しんしゅん)の号で仏画,肖像画を制作。のち京都で狩野(かのう)派の画風や雪舟の水墨画などをまなび,金碧(きんぺき)障壁画と水墨画に独自の画風を創造した。前者に智積院(ちしゃくいん)の「楓(かえで)図」,後者に「松林図屏風(びょうぶ)」「枯木猿猴(えんこう)図」などがある。日通が筆録した「等伯画説」は日本初の画論。慶長15年2月24日死去。72歳。能登(のと)(石川県)出身。本姓は奥村。通称は又四郎。

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旺文社日本史事典 三訂版 「長谷川等伯」の解説

長谷川等伯
はせがわとうはく

1539〜1610
安土桃山〜江戸時代初期の画家。長谷川派の始祖
能登(石川県)の人。狩野派を学び雪舟や中国の牧谿 (もつけい) に傾倒して古典的水墨画を復興,金碧障壁画にも傑作を残した。また『等伯画説』は日本最古の画論書といえよう。代表作に『猿猴 (えんこう) 図屛風』『楓図』など。

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世界大百科事典(旧版)内の長谷川等伯の言及

【安土桃山時代美術】より

…また秀吉が愛児棄丸の菩提を弔って1593年(文禄2)に造営した祥雲寺客殿は,天瑞寺にまさる豪壮なものであった。その建物は残らないが,長谷川等伯とその一門による四季の樹木と草花を画題とした金碧障壁画は現在智積院に残り,永徳の巨大樹表現にやまと絵草花図の優美さを加えて,自然への親和の感情を示している。自然美のなかに浄土のイメージを見る日本の伝統的自然観が,現世肯定の時代精神と結びついて,このような単なる室内装飾の域をこえた時代精神の表現となっているのである。…

※「長谷川等伯」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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