改訂新版 世界大百科事典 「阿倍氏」の意味・わかりやすい解説
阿倍氏 (あべうじ)
古代の豪族。安倍とも記す。発祥地は大和国十市郡安倍(現,奈良県桜井市)であろう。《日本書紀》では孝元天皇の皇子大彦命を祖とし,《古事記》では大彦命の子建沼河別(たけぬなかわけ)命を祖とする。阿倍氏が政界に姿をあらわすのは,宣化天皇のとき,大臣蘇我稲目らの下で大夫(まえつぎみ)(大臣や大連に次ぐ地位)に任ぜられた阿倍大麻呂が最初である。大化改新の際には阿倍倉梯麻呂(くらはしまろ)は左大臣に任ぜられたが,それは彼が政界の長老であり,またその女小足媛(おたらしひめ)が孝徳天皇の妃となっていたためであろうといわれる。斉明朝には越(こし)国守阿倍比羅夫が東北の日本海方面の蝦夷を征し,また粛慎(みしはせ)を討つなど北陸・東北方面に注目すべき活動を示している。元来阿倍氏が早くより北陸や東国方面に勢力を張っていたことは,同氏を伴造(とものみやつこ)とする丈部(はせつかべ)がこの方面に多く分布することからも察せられるが,伝承の上でも大彦命と建沼河別命は崇神天皇のとき,四道将軍としてそれぞれ北陸と東海方面へ派遣されており,また崇峻天皇のとき,阿倍臣(欠名)は北陸道に遣わされたという。阿倍氏は684年(天武13)朝臣(あそん)の姓を賜っているが,このころ阿倍氏は布勢(ふせ),引田(ひけた),久努(くな),長田(おさだ)などいくつかの系統に分かれており,694年(持統8)布勢御主人(みうし)は阿倍諸氏の氏上となり,以後阿倍御主人と称した。その死後,704年(慶雲1)前出の比羅夫の子引田宿奈麻呂(すくなまろ)が阿倍朝臣の姓を賜り,その後引田系を阿倍氏の正宗であると主張している。しかしいずれにしても御主人は701年(大宝1)右大臣に,宿奈麻呂は719年(養老3)大納言にまで昇っており,このころは阿倍氏にとってよき時代であったと言えよう。なお平安時代中期の有名な陰陽家安倍晴明は御主人の系統に連なると言われる。阿倍氏にはまた大嘗祭に吉志舞(きしまい)を奏するという特殊な職務がある。吉志舞は新羅の服属儀礼を芸能化したものと言われ,難波吉士らの間に伝えられたと思われるが,阿倍氏がこれを統率するようになった後,みずから奏するようになったのであろう。
執筆者:後藤 四郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報