改訂新版 世界大百科事典 「大部荘」の意味・わかりやすい解説
大部荘 (おおべのしょう)
播磨国加東郡(現在の兵庫県小野市一帯)にあった東大寺領荘園。1145年(久安1)に立荘され,47年にそれまで東大寺が播磨にもっていた石塩生荘(のち赤穂荘),粟生荘,垂水荘の3荘と交換して東大寺領となる。その後,東大寺は交換した3荘を手放さず,国衙と紛争がおこり,62年(応保2)5月に東大寺領として確定。治承・寿永の内乱で東大寺が焼かれると,当荘は90年(建久1)東大寺大勧進俊乗房重源(ちようげん)に与えられ,重源の申請で宋人の鋳物師陳和卿(ちんなけい)にあてがわれた。重源は荘内に播磨別所としての浄土寺を建立し,甥の観阿を住まわせた。浄土寺浄土堂は94年10月上棟,97年8月に解脱(げだつ)上人貞慶(じようけい)を導師に迎えて落慶供養をしたもので,天竺様建築の遺構として有名,安置する本尊阿弥陀三尊像は快慶作,ともに国宝。東大寺大仏の再興が完成したのちも陳和卿は当荘を私領化して寺家と対立して解任された。観阿は1242年(仁治3)12月,78歳で当寺で死ぬまで浄土寺の修造と大部荘の経営に努力した。浄土堂と薬師堂を向かいあわせ,中央に鎮守八幡宮を南面させる独特な伽藍配置は重源の発意による。重源は当荘を東南院主定範に譲ったため,以後は東南院が補任する預所,雑掌,公文(くもん)などの荘官が在地支配をおこなった。1215年(建保3)には地頭が補任され,承久の乱では武士が乱入して狼藉を行い,以後も荘務につき武家と寺家との間に紛争がくりかえされた。94年(永仁2)には雑掌垂水繁昌が供米(くまい)300斛(こく)を未進して改替されたことを不満として,久留美(くるみ)荘地頭や近隣の悪党を語らって荘内に乱入し,1302年(乾元1)には浄土寺時衆らが荘務押領を企て,公文王氏は22年(元亨2)以来一族の内紛をくりかえすなど荘内は大きく動揺した。南北朝内乱期には南北抗争が荘内にも及び,雑掌尭賢,公文性阿代官などが武家方に参戦したが,しだいに守護赤松氏の勢力が荘内に及び,52年(正平7・文和1)守護被官豊福則光が恩賞の地と称して公文職を押領し,79年(天授5・康暦1)になって寺家が彼の公文職を追認するしまつであった。1454年(享徳3)には土一揆がおこり,赤松則尚の被官と称して図師職(ずししき)を押領し急激に荘内の土地を買得集積して勢力を拡大した百姓五郎左衛門が殺害されている。応仁の乱以後は東大寺への年貢もほとんど納められなくなって解体したが,1580年(天正8)別所長治の三木城を陥れた羽柴秀吉は東大寺に寺領300石を安堵した。
執筆者:石田 善人
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