出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
霞ヶ浦の西岸に突き出る稲敷台地上の,茨城県稲敷郡美浦村に存在する縄文時代中・後期の鹹水(かんすい)産貝塚。E.S.モースの弟子で大森貝塚の調査にも参加した佐々木忠次郎,飯島魁が,1879年に,霞ヶ浦に淡水貝類の調査に赴いた折にこの貝塚を発見し,発掘したもので,日本人の手になる発掘の第1号として有名である。この成果は大森貝塚の報告体裁を見本とし,《Okadaira Shell Mound at Hitachi》(1882)として刊行された。出土土器は厚手つくりで大型,隆線文等の特徴から陸平式・厚手式(縄文中期)と呼ばれて,大森貝塚の大森式・薄手式(縄文後期)といち早く区別され,当初は陸平式を新しく見たが,その後は是正された。交通不便のためにその後の調査歴がなく,保存良好のかわりに実態は不明である。貝塚は台地縁辺で東西250m,南北200mの範囲に廃棄された8ヵ所からなるが,集落は台地上の平たん面にあるとみられる。
執筆者:安孫子 昭二
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茨城県稲敷(いなしき)郡美浦(みほ)村馬掛(まがき)にある縄文時代中期から後期にわたる遺跡。1879年(明治12)飯島魁(いさお)、佐々木忠次郎の発掘と「常州陸平介墟(かいきょ)報告」は日本人学者による最初の考古学発掘調査である。また「陸平式」は縄文土器編年研究の先駆となり、学史的意義の高い遺跡である。台地斜面に8地点のハマグリ、サルボウなどを主体とする純鹹(じゅんかん)貝塚が長径250メートルの範囲に広がり、中・後期の集落跡が貝塚の内側にあるものと推定される。阿玉台(おたまだい)・加曽利(かそり)E・堀之内・安行(あんぎょう)式土器、石斧(せきふ)、石剣、土偶が出土。保存良好な屈指の大貝塚で、1998年(平成10)国の史跡に指定された。
[十菱駿武]
『『茨城県史料 考古資料編 先土器・縄文時代』(1979・茨城県)』
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