江戸前期の儒者。元和(げんな)7年6月4日京都に浪人の子として生まれる。名は貞幹(さだもと)、字(あざな)は直夫、別号は錦里(きんり)、薔薇洞(そうびどう)など。諡(おくりな)に恭靖(きょうせい)先生という。幼少より聡明(そうめい)で、僧天海(てんかい)より法嗣(ほうし)に望まれたが受けず、松永尺五(まつながせきご)のもとで漢学を学んだ。安東省庵(あんどうせいあん)、宇都宮遯庵(うつのみやとんあん)とともに松永門の三庵と称された。一時江戸に出たが、帰京して学徒として東山で教授すること20年、40歳のとき、加賀藩主前田綱紀(まえだつなのり)に招かれて仕えた。1682年(天和2)62歳で幕府の儒官となって江戸に下り、ここに木門(ぼくもん)の学派を生じて、林家を凌駕(りょうが)するほどになった。新井白石(あらいはくせき)、室鳩巣(むろきゅうそう)、榊原篁洲(さかきばらこうしゅう)、雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)、祇園南海(ぎおんなんかい)(以上、木門の五先生という)など多くの逸材を育てた。順庵は程朱(ていしゅ)学を尊崇したが、これに局限されず、詩文を愛し、古注釈に通じ、また王陽明(おうようめい)(王守仁(おうしゅじん))も好んだ。その学の自由な該博(がいはく)さと教育家としての徳量とにより、江戸前期の文運に資するところが大きかった。元禄(げんろく)11年12月23日78歳で没した。著書に『錦里文集』19巻(1789)、『班荊(はんけい)集』2巻ほかがある。
[黒住 真 2016年5月19日]
『木下一雄校釈『錦里文集 付木下順庵評伝』(1982・国書刊行会)』▽『竹内弘行・上野日出刀著『木下順庵・雨森芳洲』(1991・明徳出版社)』
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1621.6.4~98.12.23
江戸前期の儒学者。名は貞幹,字は直夫。順庵・錦里・敏慎斎・薔薇洞と号す。恭靖は私諡。京都生れ。松永尺五(せきご)に学び,一時江戸に遊学する。帰洛後,加賀国金沢藩主前田利常に仕える。1682年(天和2)幕府の儒官となり,将軍徳川綱吉の侍講を勤める。その間,「武徳大成記」をはじめとした幕府の編纂事業に携わり,林鳳岡(ほうこう)や林門の人々とも交わる。朱子学を基本とするが,古学への傾きも示す。新井白石・室鳩巣・雨森芳洲・祇園南海・榊原篁洲・南部南山・松浦霞沼・三宅観瀾・服部寛斎・向井三省ら「木門十哲」とよばれる逸材を輩出した教育者として特筆される。著書「錦里先生文集」。
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…芳洲,絅尚堂,橘窓と号する。木下順庵の高弟で,その推薦により対馬藩に仕え,この藩の主要政務である朝鮮との応接に活躍,朝鮮語,中国語に通じその声名は内外に高かった。また名分を重んじ,同門の新井白石と将軍王号問題で論争した。…
※「木下順庵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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