改訂新版 世界大百科事典 「雲岡石窟」の意味・わかりやすい解説
雲岡石窟 (うんこうせっくつ)
Yún gāng shí kū
中国の山西省大同市の西約15km,雲岡鎮にある北魏時代の仏教石窟。武周山に面した高さ20~30mの北の崖面(砂岩)に並び,南面した大窟21(第1洞から第20洞および第39洞),中小窟20,磨崖仏龕(がん)約120があり,全長3kmに及ぶが,主要な石窟は1kmの中に集中している。1902年(光緒28)伊東忠太が踏査して重要性を指摘。07年にE.シャバンヌがはじめて多数の写真を撮影,石窟番号を与えて発表した。明治・大正期に松本文三郎,木下杢太郎,大村西崖,小野玄妙も調査や研究を加えたが,関野貞(せきのただし)・常盤大定(ときわだいじよう)《支那仏教史蹟》巻2(1926)は従来の研究に画期を与え,その石窟番号は現在まで使われている。のち東方文化学院(京都大学人文科学研究所の旧東方文化研究所の前身)は水野清一を隊長として38-44年に実測・撮影・拓本・小発掘による大規模な調査をおこない,《雲岡石窟》16巻(1951-56)を公刊。解放後の中国は55年以来補修工事を成就し,山西雲岡石窟文物保管所をおき,調査発掘や石窟防護にあたっている。
石窟は二つの小谷によって東方群,中央群,西方群に分かれ,石窟番号は東から順次西に及ぶ。大別すると北魏の平城時代と洛陽時代との窟からなり,主要窟は前者で,後者は第39洞が大窟のほかはみな中小窟であり,西方群中の第21洞以西,および第14,第15洞である。東方群は第1洞から第4洞まで。第1,第2洞は塔柱を中心にもった一双窟で,第5,第6洞と同時期とされ,この200m西に,完成すれば雲岡最大の塔柱窟となったはずの第3洞があり,494年(太和18)洛陽遷都により中断されたものである。中央群は第5,第6洞から第13洞までを数える。第5洞は座仏の石窟で,第6洞塔柱窟と一対をなし,第5洞は文成帝(在位452-465)をしのんでいとなまれたという説があるが,ともに竜門様式に近づいている。第7,第8洞は前後2室の同規模窟からなり,大仏をおかず,列龕ばかりで壁面を構成し,計画的に設計された建築的構成を示している。時期は最初にひらかれた大仏窟である曇曜窟と併行か,やや下るとされる。そのすぐ西の第9,第10洞はそののちに造営され,正面に列柱をつくり出して主室を塔柱窟としたもの。曇曜窟を生成期とすれば,様式の定まった完成期の石窟といわれる。第11洞から第13洞まではやや蕪雑で,第11洞は未完成。第12洞は第9洞や第10洞の系統を引き,列柱があり,第13洞は交脚菩薩像をおく。第5洞の座仏と第13洞の交脚菩薩(弥勒)とを東西一対の造営とし,480年前後に当てる説がある。
西方群は第14洞以西の諸窟。第16洞から第20洞の5窟が,文成帝のとき沙門統(仏教行政の長官)の曇曜が奏請して460年(和平1)ごろから開掘した雲岡で最も早い大仏窟。曇曜5窟と今よばれる。第16洞本尊が波状髪をもち,また服制が中国式になっていること,また第19洞の東脇洞もこれに近いので,曇曜5窟といっても,これらは第17,第18,第20洞より遅れる。こうした5窟は窟の奥行きが浅いうえに窟内いっぱいに大仏を彫り出し,石窟の形をかりた大仏の造営であり,充実した力をみせている。第19洞は最大で,高さ16.48mの座仏をおき,周壁に千仏,天井はドーム。第20洞は前壁が落ち露座大仏(高さ13.46m)となり,第18洞は高さ16.38mの本尊立像と脇侍立像,両者の間に菩薩,上方に十大弟子を配する。第17洞は高さ16.25mの交脚像,第16洞は高さ13.5mの仏立像。第14,第15,第21洞以西は洛陽遷都後,北魏分裂までの竜門様式に当たる。石窟の編年は研究者の間で微妙な点で異なるが,第17~第20洞や第7,第8洞における西方要素の強い独特の雲岡様式から,仏教に中国服制を採用し,また体型そのものにも特色をそなえた竜門様式にいたる変遷のなかでとらえられている。
北魏はモンゴル高原から興った遊牧の鮮卑族拓跋部が,魏・晋の動乱期にフフホト方面から大同盆地へ進出して建てた国で,398年(天興1)第1代道武帝が平城に国都を置き,第3代太武帝の439年(太延5)に甘粛の北涼を討滅して,北中国を統一。北魏は五胡の諸国を征服するたびにその文化を平城に移したが,北涼征服のとき当時仏教では先進地域であった涼州の文化を強制移動し,その力を政治に利用した。第4代文成帝は太武帝の排仏政策を転換し,涼州の僧であった師賢や玄高を重用し,ついで曇曜を用いた。彼の奏請による雲岡石窟の初期窟には,涼州や中央アジアの仏教やその造像活動が反映し,また固有の文化をもたなかった遊牧民族が先進文化人である漢族を支配するに当たって示した,彼らの文化理解のあり方が反映している。471年(延興1)に孝文帝が幼少で即位すると文明太后が摂政となり,北魏勢力はもっとも充実し,雲岡最盛期を現出する。490年に孝文帝が親政して漢化政策は一段と進展し,ついに平城をすてて洛陽にうつる。
執筆者:桑山 正進
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