石や金属に彫られた文字や模様を、原形のまま紙に写し取ったもの、およびその技法。瓦(かわら)、磚(せん)(塼)、古碑、板碑、記念碑、文学碑、墓碑、釣鐘、磨崖仏(まがいぶつ)、鐔(つば)、刀銘、硯(すずり)、コインなどがその対象となる。
活字、印章、版画などは、写し取ったとき、文字を正面向きとするために左文字につくられており、魚拓では魚に直接墨汁を塗って紙に押し当てるため左右反対になるが、拓本は原物に紙を当て、その上から墨を打って凹凸の文様を写し出すので、文字はそのまま正面に原寸大で写し出され、刻み込んだ部分は白く、彫り残した部分は黒くなる。文字の点画や線の微妙な部分まで原寸大で見ることができるため、考古学や、碑文・鐘銘などの文字文章を研究する金石学の分野では、拓本は不可欠の重要な資料であり方法といえる。また、白と黒のモノクロームで表現される簡素な美は、採拓者、墨の濃淡、天候その他の条件によって一枚一枚できあがりが異なり、数にも限りがあるので、その原始性が芸術作品として鑑賞の対象となっている。また、植物の葉や木目(もくめ)、木はだを拓本にとって、自然の造型美を味わう葉拓(ようたく)も拓本の一種である。
[大山倫子]
中国では真跡を紙本墨書で複製する場合、籠字(かごじ)にとり輪郭の中を墨で塗りつぶす双鉤填墨(そうこうてんぼく)が早く行われていたが、これと並んで碑の模本復刻も盛んに行われた。敦煌石窟(とんこうせっくつ)で発見された唐の太宗の『温泉銘』の拓本に、永徽(えいき)4年(653)の墨書があり、すでにこのころ拓本技術があったことがわかる。古くは打本(うちほん)あるいは搨本(とうほん)といい、碑から直接に写した拓本と、それをさらにもう一度石や木版に彫ってから拓本にしたものがあり、前者を原拓、後者を模本とか模拓という。これらの拓本を折本に仕立てたものを法帖(ほうじょう)といい、書道の名品として鑑賞され、学習の手本とされた。
日本では古くは石摺(いしずり)といい、技法は中国から伝来したと思われる。奈良時代には碑本が舶載され、鎌倉時代には仏照禅師によって達磨(だるま)以下禅僧の画像拓本がもたらされている。日本での採拓記録として、虎関師錬(こかんしれん)の『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』に、義空が東寺の断碑を模印したことが記されている。これは拓本が金石文研究に使われたわが国最初の例といえよう。江戸時代に学芸が盛んになるのに伴い、古瓦(こがわら)・古碑・墓碑などの拓本が多くとられて珍重されるようになる。書家細井広沢(こうたく)は、模拓についての研究を行い注目された。写真技術の発達した現代でも、拓本は考古学や美術史研究のうえで重要である。
[大山倫子]
乾拓と湿拓の二つの方法がある。乾拓はコインやメダルの上に紙を当てて鉛筆の芯(しん)を斜めにしてこする遊びと同じ方法で、原物の上に紙を当て、動かないようにしっかりと押さえ、固形の拓本墨でまんべんなくこすりつけると、高いところは濃く、低いところは薄く写る。小品や繊細な文様のあるものや、ぬらすことのできない木彫りの作品などでは、この乾拓法を用いる。
[大山倫子]
原物の表面に当てた紙を、上から水でぬらして張り付け、墨のついたタンポでたたいて写し取る方法。碑などの採拓にはほとんどこの湿拓法が用いられる。(1)原物の寸法を測り、泥やほこりを払う。ただし、苔(こけ)などはなるべくそのままにし、現状を損じてはならない。
(2)紙を適当な大きさに切り、碑面に当てて刷毛(はけ)で水を塗るか、霧吹きでまんべんなく湿らせる。四隅をセロファンテープで軽く留めるとやりやすい。ただ、テープなど粘着剤使用を禁じられている場合もあるので注意すること。
(3)碑面と紙の間にできた気泡を、文字の中や碑面の外へ押し出し、紙を碑面に密着させる。これには、羅紗(らしゃ)布や、ぬらしたタオルを固く巻いたものを用いる。
(4)さらに、毛の短いブラシか、脱脂綿をフェルトに包んで棒状にしたもので、打ち込むように手早く、かつ念入りにたたき、文字の線がはっきり出るようにする。
(5)紙がいくぶん湿り気を残しているうちに、タンポで採拓する。タンポは二つ持ち、一方のタンポに墨をつけ、もう一つのタンポとこすり合わせて墨加減をならし、余分の紙で濃さを確かめたら、手早く紙面全体をたたいてゆく。初めは薄くし、何度も重ねてたたいて墨の濃さを一様にする。タンポは紙面に対して直角に、ボールが弾むように軽く打つ(けっして強くたたいてはならない)。全体にむらなく打てたら、別の小さいタンポで細部を打って完成させる。
(6)紙が完全に乾ききらないうちに注意しながらはがし、広げておいた新聞紙の上に置いて乾かす。乾いたら筒状に巻いて保存する。拓本を裏打ちしたものは、額装や軸に仕立てて鑑賞することができる。
[大山倫子]
(1)紙 乾拓には礬水(どうさ)引きの薄美濃紙(うすみのがみ)がよく、湿拓には一般に画牋(がせん)紙を用いる。中国産の画牋紙(宣紙(せんし))は粘りがあり、拓本にもっとも適している。
(2)墨 乾拓の場合は拓本墨(石花墨)でこする。湿拓には油墨を用いる。1、2枚とる程度なら、品質のよい墨を濃く摺りためて用いればよい。専門家は、植物性油と煤(すす)の粉を煮つめ、これに細かく切った古綿をかき混ぜて練った墨肉を用いる。墨汁はむらをつくり、水がかかるとにじむので、拓本には不適当である。
(3)タンポ 綿(わた)を布で包んだもので、墨をつけて紙面をたたくのに用いる。包む布は糊(のり)気のない羽二重(はぶたえ)か紅絹(もみ)を最上とするが、細かい目の化学繊維でもよい。また、麻布のような粗い布目を用いて、特殊な効果を出す場合もある。中に入れる綿はもめん綿がよく、脱脂綿は適さない。綿を丸め、厚さ4、5センチメートルくらいのスポンジを綿の球より大きめに丸く切ったものをかぶせ、その上から布で包む。根元のほうに丸く切った厚紙をのせ、布にしわが出ないように絞り込み、紐(ひも)で根元をくくる。別に綿か布を棒状にしたものを把手(とって)として、絞り込んだ中央につける。把手は握るのに適当な長さとする。タンポは大(直径7、8センチメートル)2個、中(同約5センチメートル)1個、小(同約2センチメートル)1個は用意したい。大きい面は大きいタンポでおおらかな味を出し、細かい輪郭は小さいタンポを用いてたたくとよい。
(4)その他 水刷毛は障子張りなどに使う糊刷毛でよく、毛足の長めで軟らかいものを選ぶ。たたき刷毛は毛足の短いもので、古い洋服ブラシなどで代用できる。また、湿拓には水が欠かせないので、水筒はかならず用意する。
[大山倫子]
かならず碑の所有者、管理者などの許可を受けてから採拓する。重要文化財などは、原則として、願い出ても許可されないと考えてよい。絶対に直接碑面に墨を塗ってはならない。碑を汚すばかりでなく、反対に写って拓本の意味をなさない。碑を損傷したり、汚れたりしないように注意するのはもちろんだが、碑の周囲の草木を踏んだり、景観を損じないようにすることもたいせつである。採拓には、風のあるとき、雨天は不適当であり、炎暑の好天も乾きすぎてやりにくい。天候としては曇天がもっとも適している。
[大山倫子]
『内田弘慈著『拓本技法図典』(1989・創元社)』▽『篠崎四郎著『図録 拓本入門事典』(1991・柏書房)』▽『比田井南谷・筒井茂徳編『拓本で見る中国書道史 殷~唐』(1997・天来書院)』▽『本山ちえ著『拓本入門』(保育社・カラーブックス)』
搨本(とうほん)とも称し,日本では石摺(いしずり)ともいう。中国で石碑や銅器に刻された文字や図像を,特殊な方法で紙の上に直接写し出したもの,またその技法をもさす。これには二つの方法があり,一つは実物の上に乾いた紙をあて,その表面を特別の軟らかい墨(釣鐘墨)でこすって写し出すもので,乾拓法という。英語で拓本のことをラビングrubbingというのは,厳密にはこれをさすわけである。いま一つは湿拓法といい,実物の上に紙(今日では普通に画仙紙)を水張りにし,刷毛(はけ)や布切れで十分に打ち込んで半乾燥状態になるのを待ち,たんぽ(中国では墨包という)に墨をつけて文字や図像を叩き出す。実物を原寸大に写し出すことができ,相当に凹凸のある彫刻でも弾力性のある紙を用いればよいので,拓本といえばもっぱらこの湿拓法をさす。学問研究の資料用としても芸術の鑑賞用としても広く普及し,その技術も非常に進んでいる。
中国では古くから重要な記録を永遠に伝えるため,青銅器や石に刻して保存した。とくに後漢では種々の目的で石碑を立てることが流行し,2世紀の末には儒教の経書の標準テキストを作り,石碑に刻して国都洛陽の太学に立てた(漢石経)。しかし,紙の流通がまだ十分でなかった当時では,これを拓本にしたとは到底考えられない。西洋の学者の中には石碑の出現と拓本の発生を同時のこととし,これをすぐさま印刷の起源に結びつけるものもあるが,紙の歴史からみてこれは無理なようである。今日知られたところ,拓本の存在は6世紀末の隋代からで,それ以前にはあまり古くさかのぼることはできないであろう。漢石経の拓本が作られたかどうかは疑問であるが,唐の初めに隋代の図書を集録した《隋書》経籍志の中に,三字石経(魏石経)の《尚書》と《春秋》とがみられ,これが記録に残る最古の拓本ではないかといわれる。唐代になると拓本の実物が敦煌から発見され,フランスの国立図書館に所蔵されている唐の太宗の《温泉銘》は不完全ではあるが,終りに永徽4年(653)の墨書があり,この年よりも古いことが明らかで,世界最古の拓本といってよい。そのほかに欧陽詢の《化度寺邕禅師塔銘》(同じものの一部分がロンドンの大英博物館にある)と柳公権の《金剛般若波羅蜜経》があり,以上3点ともみな全拓本を1行ずつ切り離し適当な大きさにして横につないだ剪装(せんそう)本である。これに対して全拓本を整拓という。
日本の入唐僧も拓本を持ち帰ったのであって,最澄のごときは《法門道具等目録》の中にとくに書法目録の項を設け,大唐石摺13点をあげているが,今日ではまったく残っていない。中国においても確実な唐拓はいくらも存在していないのである。宋代のものは相当に多く,学者文人はこれを宋拓といってとくに尊重する。宋代には金石学(古銅器や石碑などに刻された文字の研究)が起こり,拓本の収集も盛んになって《金石録》や《宝刻類編》のごとき目録書が今日に伝えられている。また古来の名筆家の尺牘(せきとく)類を集めて石に刻し,拓本をとって法帖(ほうじよう)を作ることが五代から始まり,宋代には大いに流行した。これは鑑賞用と習字用とを兼ねたもので,精巧な石刻の技術の上に,拓本作りにも熟練が要求されたのである。したがって,宋代からのちは拓本についての研究も起こり,地方的な相違,古拓と新拓の特徴,真偽の鑑別などが論ぜられるようになった。
宋人によると,北方の拓本は用紙が厚く粗い上に,松煙墨を使うのでかすれて色が淡く,南方のは油煙墨に蠟をまぜて使うため色が漆黒で光沢があるという。後世,淡色のものを夾紗拓(きようしやたく)あるいは蟬翅拓(せんしたく)(また蟬衣拓),濃色のものを烏金拓(うきんたく)などと呼ぶようになった。もちろん同じものを拓本にとっても,拓工の技術の差によりできばえは非常に違うので,学者も好事家も拓本の名人を求めるのに苦労したものである。清末の文献をみると,名拓工として知られたものが何人か出ている。日本にも拓本の技術は中国から伝えられたのであって,おそらく鎌倉時代には行われていたのであろう。実物そのまま簡単に写し出すことができるので,江戸時代には非常に普及し,写真術が西洋から入ってきたのちも,考古学研究には写真と併せて利用されてきた。作り方によっては芸術的な鑑賞にも十分値するので,学者が研究資料とするほか,好事家の趣味としても盛んに行われている。
執筆者:日比野 丈夫
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