青木周弼(読み)アオキシュウヒツ

デジタル大辞泉 「青木周弼」の意味・読み・例文・類語

あおき‐しゅうひつ〔あをきシウヒツ〕【青木周弼】

[1803~1864]江戸末期の医学者。周防すおうの人。名は「しゅうすけ」とも。江戸・長崎蘭学を学び、のちに長州藩医として種痘実施。著「袖珍しゅうちん内外方叢」「察病論」など。

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精選版 日本国語大辞典 「青木周弼」の意味・読み・例文・類語

あおき‐しゅうひつ【青木周弼】

  1. 江戸後期の医者蘭学者周防大島の人。長州藩に仕え、医学校好生館を創立させる。弟研蔵に種痘術を研究させ藩内に施行した。享和三~文久三年(一八〇三‐六三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「青木周弼」の意味・わかりやすい解説

青木周弼(あおきしゅうひつ)
あおきしゅうひつ
(1803―1863)

江戸末期の蘭方医(らんぽうい)。周防(すおう)国(山口県)大島郡和田村(現、周防大島町)の村医青木玄棟(げんとう)の長子。名は邦彦。月橋と号し、周弼は字(あざな)。幼時長州藩医能美洞庵(どうあん)(1794―1872)に儒学と医学を学んだ。18歳のころ大坂に、30歳ごろ江戸に行き、深川でオランダ語と基礎・臨床医学を教えていた坪井信道(しんどう)に学び、その紹介で宇田川榛斎(しんさい)にも師事緒方洪庵(おがたこうあん)と同門であった。また弟の研蔵(1815―1870)を同行し長崎でシーボルトにも入門した。1839年(天保10)萩藩医となり、1842年周防医学所教授蘭学掛となり、続いて医学校の好生館(解剖、生理、病理学、治療、薬性、舎密(せいみ)を指導)の設立に尽くし、1855年(安政2)御側医(おそばい)に累進した。研蔵の協力を得て藩内に種痘を実施、普及させ、コレラの予防、治療に貢献した業績は大きい。時勢に明るく藩主へのよき建言者となり、村田清風とも交流した。門人も多く、晩年には江戸の西洋医学所頭取(とうどり)の就任交渉を受けたが辞退した。著作に『袖珍内外方叢(しゅうちんないがいほうそう)』『察病論』などがある。

[末中哲夫]

『『青木周弼』(1941・青木周弼先生顕彰会)』


青木周弼(あおきしゅうすけ)
あおきしゅうすけ

青木周弼

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「青木周弼」の解説

青木周弼 あおき-しゅうすけ

1803-1864* 江戸時代後期の医師。
享和3年1月3日生まれ。青木研蔵の兄。大坂,江戸で医学をまなび,長崎でシーボルトに入門。天保(てんぽう)10年長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩医となり,医学館開設につくし,蘭学教授をつとめた。文久3年12月16日死去。61歳。周防(すおう)(山口県)出身。名は邦彦。号は月橋。通称は別に大吉。訳書に「察病論」,「袖珍(しゅうちん)内外方叢(ほうそう)」(共訳)など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「青木周弼」の意味・わかりやすい解説

青木周弼
あおきしゅうすけ

[生]享和3(1803).1.3. 周防,大島
[没]文久3(1863).12.16. 萩
江戸時代後期の蘭方医。天保 10 (1839) 年に長州藩に仕え,翌年,医学館の創設に尽力し,蘭学教授を命じられる。のちに御側医を命じられ,医学のみならず外国事情を藩主に伝えた。打聴診法を説く『察病亀鑑』など医書のほか,兵書,クリミア戦争記などの訳著がある。

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367日誕生日大事典 「青木周弼」の解説

青木周弼 (あおきしゅうすけ)

生年月日:1803年1月3日
江戸時代末期の医師;蘭学者;長州(萩)藩士
1864年没

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