中国、漢の高祖劉邦(りゅうほう)の功臣。軍略にたけた武将。淮陰(わいいん)(江蘇(こうそ)省)の貧家に生まれ、母親の葬儀も出せなかった。ある日城下で釣りをしていたとき、近くで洗い物をしていた老女が彼の飢えを見かねて食を与え、そのまま寄食すること数十日。いつの日かこの恩に報いるといったところ、自分で食えずにいて何が報恩だと叱(しか)り飛ばされた。また、町なかでばかにされながらも一時の恥を忍んで無頼者の股(また)の下をくぐったという。これらの若いころの逸話は、いずれも彼の大志あるをうかがわせるものである。秦(しん)末の乱に際し、初め項羽(こうう)陣営に属したが、不遇を不満として劉邦に仕えようとした。その際危うく斬(き)られそうになったが、重臣夏侯嬰(かこうえい)にみいだされて救われ、さらに丞相(じょうしょう)蕭何(しょうか)の推薦でやがて大将となり、項羽討滅の策を次々と献じ、劉邦をして、もっと早くこの男を幕下に入れたかったといわしめた。紀元前206年、項羽の都彭城(ほうじょう)を襲った劉邦が危機に陥るやそれを救い、ついで趙(ちょう)、斉(せい)の地を攻略して黄河下流一帯を確保し、漢を優勢たらしめ、斉王に封ぜられた。漢の天下統一が達成されると、異姓の諸王を廃除しようとする劉邦の政策にあい、また、陛下はせいぜい10万の兵の将だが、自分は多々ますます弁ず(多ければ多いほどよい)と豪語した有能さが災いし、しだいに悲劇的な晩年になってゆく。楚(そ)王に移され、次には反逆の疑いで淮陰侯に落とされ、前196年、呂后(りょこう)の謀計にかかって捕らわれ、一族もろとも滅ぼされた。
[春日井明]
中国,漢の高祖劉邦の功臣。淮陰(わいいん)(江蘇省淮陰市南)の人。無名のころは,家が貧しくて寄食暮しをしていたが常に大剣を帯び,それを臆病者と侮辱されてもよく耐えて若者の股の下をくぐった逸話がある。秦末の反乱がおこると楚の項羽に従ったが重用されず,去って高祖に従い,蕭何(しようか)の推挙で大将に任命された。楚・漢の戦いでは,漢の別動隊として趙から燕,斉の地を平定して斉王に封ぜられ,楚・漢と並んで天下を三分する優位に立ったが,高祖に対する忠誠をまもり,項羽を追いつめて漢を勝利に導いた。しかし高祖は天下を平定すると,彼に協力した異姓の諸王の存在に強い不安を抱いた。中でもおそれたのは韓信の実力であった。そのため韓信はまず斉王から楚王にうつされ,翌年(前201)には謀反の疑いで捕らえられたのち淮陰侯に格下げされ,ついには呂后に謀られて殺され,三族ことごとく滅ぼされた。高祖に捕らえられて〈狡兎(こうと)死して良狗(りようく)烹(に)らる〉といったのは有名な故事である。
執筆者:永田 英正
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…逆に敵の旗を抜き奪いとることは,〈搴(けん)旗〉といい〈搴旗の士〉とは勇士を意味した。旗の争奪による戦場の帰趨を作戦にみごとに駆使したのは〈背水の陣〉の故事で知られる漢の韓信の井陘口付近での戦いである。20万の趙王の軍を相手に数千の兵数で戦う韓信は,河を背に主力軍を死力をつくして戦わせ,その間に漢軍がわざと放棄した大将の旗鼓を奪いあう趙軍の虚をつき,漢の奇兵が空となった趙軍陣地を占領して趙軍旗を抜きとり,漢の赤幟を一挙にはためかして勝利をおさめたのであった。…
※「韓信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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