頼久寺(読み)ライキュウジ

デジタル大辞泉 「頼久寺」の意味・読み・例文・類語

らいきゅう‐じ〔ライキウ‐〕【頼久寺】

岡山県高梁たかはし市にある臨済宗永源寺派の寺。山号は、天柱山。暦応りゃくおう年間(1338~1342)に足利尊氏が天忠寺跡に安国寺創建開山寂室元光。永正元年(1504)領主の上野頼久が中興し、安国頼久寺と改称庭園小堀遠州作。

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精選版 日本国語大辞典 「頼久寺」の意味・読み・例文・類語

らいきゅう‐じ ライキウ‥【頼久寺】

岡山県高梁市頼久寺町にある臨済永源寺派の寺。山号は天柱山。正称は安国頼久禅寺。暦応二年(一三三九)足利尊氏が諸国に発した安国寺建立の命に応じて天台宗の天忠寺跡に建てられた備中国安国寺にはじまる。開山は寂室元光。永正二年(一五〇五)松山城主上野頼久が再興し、現在名に改称。庭園は小堀遠州作とされ国名勝

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日本歴史地名大系 「頼久寺」の解説

頼久寺
らいきゆうじ

[現在地名]高梁市頼久寺町

臨済宗永源寺派、山号天柱山、本尊正観音。安国頼久禅寺を正式の寺号とする。開山は永源寺派の宗祖寂室元光、開基は元光の高弟霊仲禅英(山上宗譜図)。草創当時は天忠てんちゆう寺あるいは大林だいりん寺と号したと伝え、また足利尊氏・直義が諸国に命じて建立させた安国寺のうち、備中安国寺にあたるという説もある。

永正年中(一五〇四―二一)松山城主上野頼久が荒廃していた伽藍を再興し、旧寺号の天忠をもって山号を天柱山と定め、頼久を寺号に加えたと伝える。天正三年(一五七五)毛利輝元が松山城主三村元親を攻略した備中兵乱で戦火にかかり、伽藍・什宝を失ったが、乱後輝元の命により松山城将天野中務元明・同五郎右衛門元信によって復興されたという(「頼久寺由来略記」寺蔵)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「頼久寺」の意味・わかりやすい解説

頼久寺
らいきゅうじ

岡山県高梁(たかはし)市頼久寺町にある臨済(りんざい)宗永源寺(えいげんじ)派の寺。詳しくは天柱山安国頼久寺と号する。本尊は聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)。暦応(りゃくおう)年間(1338~42)足利尊氏(あしかがたかうじ)が日本六十六国に安国寺を建立したとき、天台宗天忠寺の廃址(はいし)に天柱山安国寺を建てたのが始まりで、近江(おうみ)(滋賀県)の永源寺を創建した寂室元光(じゃくしつげんこう)を開山とする。その後衰退したのを、1504年(永正1)備中(びっちゅう)松山城主上野頼久が再興し、その子守頼が父の名を加えて安国頼久寺と改称した。小堀遠州作の庭園は国指定名勝。寺宝には絹本着色釈迦(しゃか)三尊像(国重要文化財)などがある。

菅沼 晃]


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デジタル大辞泉プラス 「頼久寺」の解説

頼久寺

岡山県高梁市にある臨済宗永源寺派の寺院、天柱山安国頼久寺の通称。本尊は聖観世音菩薩。暦応(りゃくおう)年間創建の安国寺を起源とする。備中松山城主の上野頼久が中興して改称。小堀遠州作とされる庭園は国の名勝に指定。

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