歩」で、合わせて三町七段余となり、東方の雑舎の院の広さは三五・三六坪に一町三段三一四歩で、寺地は東西三町・南北二町を占めたと考えられる。中央に金堂、その前面に中門、さらにその前方に南大門を、中門と南大門との間、回廊外南東方に三重塔を、金堂の北に講堂を、金堂の東北方と講堂の後方両側に僧房らしいものを記し、これらをめぐって大垣とを示している。
〈大和・紀伊寺院神社大事典〉
当寺と
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
奈良県大和郡山(やまとこおりやま)市額田部(ぬかたべ)寺町にある寺。真言律宗に属する。617年(推古天皇25)に聖徳太子の発願によって創建された熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)が、639年(舒明天皇11)に百済(くだら)川のほとりに移転されたのが現在の大安寺(たいあんじ)にあたる。熊凝精舎の移転後の旧地に建立されたのが当寺で、道慈(どうじ)律師の創建と伝えられる。額安寺の名称は、推古(すいこ)天皇の額(ひたい)に悪瘡(あくそう)ができたので、薬師如来(にょらい)像をつくって祈願したところ全快したことに由来していると伝えられている。その後、西大寺忍性(にんしょう)が再興したが、永享(えいきょう)年間(1429~41)に堂宇が焼失して以来荒廃し、現在に至っている。寺宝の額田寺伽藍並条里図は国宝。
[眞柴弘宗]
奈良県大和郡山市にある真言律宗の寺。一名額田(ぬかた)寺ともいう。聖徳太子創建の熊凝(くまごり)寺の後身というが明らかでない。この地に繁衍(はんえん)した額田氏の氏寺で,出土瓦よりみて創建は飛鳥時代末期と思われる。8世紀に入唐留学僧道慈により寺観の整備がすすみ,鎌倉時代には西大寺の叡尊により中興されたが,室町時代の兵火,豊臣秀吉による大塔の四天王寺移建などで寺運は衰退した。多くの寺宝がある。
→額田寺伽藍幷条里図
執筆者:堀池 春峰
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…額安寺(がくあんじ)に伝来,現在国立歴史民俗博物館所蔵。奈良末期の天平宝字年間(757‐765),または少し後の作成。…
※「額安寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」