願教寺(読み)がんきようじ

日本歴史地名大系 「願教寺」の解説

願教寺
がんきようじ

[現在地名]安塚町須川 寺山

須川すがわのほぼ中央の段丘上字寺山てらやまにある。浄土真宗本願寺派本尊阿弥陀如来。寺伝によれば、宗祖見真大師(親鸞)から法号を授かった明教房善入が、弘長二年(一二六二)常陸国板敷山の辺りに一寺を創建。以後正応四年(一二九一)信濃高井たかい郡に移り、次いで永禄四年(一五六一)越後国春日山かすがやま(現上越市)辺りに移り、同一二年当地に移ったという。天和検地では除地高四石九升三合のほかに切替畑三畝二〇歩、屋敷一反九畝五歩、屋敷沿いの畑二反歩があり、門前百姓が九軒ある。正徳五年(一七一五)当寺学栄は本願寺執事から三越ならびに能登・信濃・出羽・奥州七ヵ国内での「諸物弘通之願及言上」の免許を得ている。


願教寺
がんきようじ

[現在地名]盛岡市北山一丁目

法華ほつけ寺の南東隣にある。北峰山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。「盛岡砂子」には開山は源頼政の末裔某とある。寺伝によれば、出羽善証ぜんしよう(現秋田県仙北郡六郷町)一五世浄信房が慶安年中(一六四八―五二)浅岸あさぎし村に一寺を草創したが、寛文一〇年(一六七〇)中津なかつ川の大洪水により流失、現在地に移転したという。寺地は、盛岡藩三代藩主南部重直の火葬地とされる(同書)。文化一三年(一八一六)類焼にあって堂宇灰燼に帰したが、弘化二年(一八四五)一三代藩主南部利済が当寺に帰依し、寺域を拡大して堂宇を造営し大寺となった。


願教寺
がんきようじ

[現在地名]河合村稲越

下稲越の寺村しもいなごえのてらむらの段丘上にあり、天王山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。寺伝によると、開基願覚は天文五年(一五三六)慶条村に一宇を構え、専光坊と名付けた。本尊裏書には同八年六月一一日付で「飛州小鷹利郷慶条村願主願覚」とある。そのほか蓮如や実如筆の六字名号など多くの寺宝を有する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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