死体を埋葬せずにさらす葬法。曝葬(ばくそう)、空葬という言い方もある。死体を置く方法によって、樹葬、台上葬、洞窟葬(どうくつそう)などの区別ができる。これらの葬法は北アジア、東南アジア、メラネシア、オーストラリア、南北アメリカなど多くの地域でみられる。樹葬は、樹上葬ともいい、死体を木の頂やまたのところに置く葬法で、台上葬は死体を台架の上に置いて風化させる葬法、洞窟葬は洞窟の中に死体を納める葬法である。
日本では、沖縄をはじめ南島諸地域には風葬が広がっていたことが知られている。この地域の風葬には2種類あって、このうちの一つは、天然の洞窟や墓地の叢林(そうりん)などの中になきがらを置いて風化するに任せ、法事をしたり、仏壇や位牌(いはい)をつくるといったようなことをしないやり方である。もう一つは、まず死体を一定期間大気にさらして風化させ、そのあと改めて遺骨だけを集めて、故人が産湯を使った井戸の水とか泡盛(あわもり)酒などで洗骨を行い、その遺骨を墓に葬るという複葬の形式をとるものである。風葬のみの場合の例をあげると、奄美(あまみ)大島では最近まで死者をグショヤマという叢地に風葬していたという。宮古島では、畑の中に石を築き上げてその中に棺を入れ、その上には草や茣蓙(ござ)などをかける。宮古列島の離島である池間(いけま)島、伊良部(いらぶ)島、来間(くりま)島の諸島でも、畑の中に棺を置いて石や草をかぶせ、風化するのに任せる共同墓地が多かった。石垣島では、1907年(明治40)ごろ、長方形の石垣の囲いの中に棺を納めて蓆(むしろ)をかぶせ、竹竿(たけざお)で縦横を押さえて上に石を置くヌーヤとよばれる墓地がつくられていた記録がある。風葬はまた、沖縄本島の離島である久高(くだか)島でも大正ごろまでみられ、水辺の叢林の陰に棺を置いていた。沖永良部(おきのえらぶ)島では、モヤという小屋の中に棺を置き、親子兄弟はモヤに行っては何度も棺を開いて死者の顔を見る風習があった。津堅(つけん)島でも明治時代まで、後生山という藪(やぶ)の中に遺骸(いがい)を蓆に包んでほうっておく風習があって、家族や親戚(しんせき)、友人が毎日死者を訪れて顔をのぞいたという。これらの風葬は、沖縄地方のもう一つの風葬、すなわち洗骨を伴う風葬と無関係ではないと考えられる。つまり、洗骨と改葬を伴わない単葬形式ではあるが、実は複葬形式の第一段階、あるいは、南島諸地域のなかでもとくに文化的中心地から離れた地域における一形式であったろうと考えられるのである。
[清水 純]
死体を洞窟内や森林,野原,山上などに放置し,自然の腐敗過程にまかせ,あるいは野鳥や野獣が食いつくすままにして処理する葬法。棺を用いない場合は死体放棄による葬法ともいいうる。エスキモーの一部,シベリアに住む若干の民族などの採集狩猟民,チベット族や一部のモンゴル族,東アフリカのマサイ族などの牧畜民のあいだで行われている。日本では沖縄の先島諸島の風葬が有名であるが,かつては沖縄本島にも広く見られた。宮古島の例では,畑のなかに石で囲いを作り,そのなかに棺を置き,上に草やござをかけていた。奄美諸島南端の沖永良部島では小屋のなかに棺を置き,死後しばらくして臭気がでているにもかかわらず,遺族はここに出向いて棺を開き死者のようすをのぞいていたという。奄美の場合,1877年鹿児島県庁は風葬禁止令を出してこれを禁じた。沖縄,奄美の風葬は,本来,洗骨に先立つ一次葬であったとの見方もある。
執筆者:内堀 基光
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…この6神格は物質世界にそれぞれ,火,水,大地などの特定の庇護物を有している。信徒は特にこの3要素を汚すことを避け,拝火教の通称が示すように独特の祭祀形式や,鳥葬・風葬のためのダフメdakhme(沈黙の塔)を発達させた。ゾロアスターの教説は,当時の多神教をアフラ・マズダを最高神とする倫理的一神教に統合しようとするものであった。…
※「風葬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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