幕末期の植物学者。伊勢(いせ)国亀山西町(三重県亀山市)の藩御用商人西村信左衛門の次男として生まれる。幼名は本平、のちに専吾、名は守之(もりゆき)、長順、号は慾斎、字(あざな)は龍夫である。大垣に出て、漢方医飯沼長顕(1755―1815)の養子となり、28歳のとき江戸に出て、宇田川榛斎(しんさい)、藤井芳亭(ほうてい)に蘭学(らんがく)を学び、大垣に帰り、蘭方医を開業する。1832年(天保3)隠居して、大垣近郊の長松村(大垣市長松町)にある別荘平林荘で、博物学の研究に専念した。1843年三男興斎(1821―1887)を宇田川榕菴(ようあん)の養子に出す。日本で最初のリンネ分類による植物図譜『草木図説(そうもくずせつ)』を執筆し、草部20巻、木部10巻を完成させたが、江戸時代におけるヨーロッパ植物学の受容と理解の成果をここにみることができる。草部は1856年(安政3)から1862年(文久2)にかけて出版された。木部は江戸時代には未刊。墓は大垣市安井町の縁覚寺にある。
[矢部一郎]
江戸後期の蘭方医,博物学者。伊勢亀山藩の御用商人西村信左衛門の次男。幼名本平のちに専吾,名は守之,長順,字は竜夫,号は慾斎という。1794年(寛政6)大垣に出て,漢方医飯沼長顕の養子となる。1810年(文化7)江戸の宇田川榛斎の門に入り,蘭方を学び,大垣に帰って,蘭方医として開業した。32年(天保3)大垣近郊の長松村の別荘平林荘に隠居し,博物学の研究に専念した。52年(嘉永5)ごろに日本で最初のC.vonリンネの分類法による植物図鑑《草木図説》草部20巻を完成し,56年(安政3)から62年(文久2)にかけて出版した。本書はオランダのホッタインMartin Houttuynの博物誌などを参考とし,本草を脱却した近代的な植物図鑑であり,江戸時代の西欧植物学導入の総決算といえるものであった。
執筆者:矢部 一郎
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(遠藤正治)
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…やっと18世紀になって,貝原益軒の《大和本草》(1709)や稲生若水の《庶物類纂》(未完),小野蘭山《本草綱目啓蒙》(1806)などによって日本風の本草学が集成されていった。江戸時代末にはC.P.ツンベリーやP.F.vonシーボルトなどを介して西洋本草学の影響が及び飯沼慾斎《草木図説》(1852),岩崎灌園《本草図譜》(1828)などが出版され,日本の植物についての高い知見が示されていった。【岩槻 邦男】。…
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