日本大百科全書(ニッポニカ) 「明仁」の意味・わかりやすい解説
明仁
あきひと
(1933― )
皇統譜にいう125代天皇(在位1989~2019)。その在位が平成で表示される。昭和8年12月23日昭和天皇裕仁(ひろひと)の第1皇子として生まれる。母は良子(ながこ)(香淳(こうじゅん)皇后)。幼名は継宮(つぐのみや)。1940年(昭和15)学習院初等科に入学。第二次世界大戦後、小泉信三から教育をうけ、また、アメリカのエリザベス・バイニングElizabeth G. Vining(1902―1999)を家庭教師とし、英語教育などを受ける。1952年成年式と立太子礼をあげる。1953年以降、イギリス女王エリザベス2世戴冠(たいかん)式参列をはじめ、天皇の名代として諸外国を親善訪問する。1959年4月、日清(にっしん)製粉社長正田英三郎(しょうだひでさぶろう)(1903―1999)の長女美智子(みちこ)と結婚。1960年浩宮徳仁(ひろのみやなるひと)(1989年、皇太子となる)、1965年礼宮文仁(あやのみやふみひと)(1990年、結婚して秋篠宮(あきしののみや)となる)、1969年紀宮清子(のりのみやさやこ)(2005年、結婚により皇籍を離脱)が誕生。1970年代以降、天皇の国事行為をはじめ「公的行為」代行の機会が増し、外国訪問、地方視察などを精力的にこなした。1989年(平成1)1月裕仁の死去により皇位を継承した。美智子皇后とともに戦後天皇制の定着に努め、次男礼宮、皇太子の浩宮に旧皇族、華族出身ではない女性との結婚を認めるなど、「開かれた皇室」のイメージづくりを進め、東南アジア、中国、沖縄などを積極的に訪問し、昭和天皇がなしえなかった戦後処理に強い関心を示している。また、日本国憲法の遵守を明言し、大元帥であり現人神(あらひとがみ)であった時代とは違う天皇像を模索した。
[小田部雄次]
2019年4月30日、自らの意向により譲位し、上皇となった。
[編集部]
『吉田伸弥著『天皇への道――明仁陛下の昭和史』(1991・読売新聞社)』▽『宮内庁編『道――天皇陛下御即位十年記念記録集』(1999・日本放送出版協会)』