駅伝制(読み)えきでんせい

改訂新版 世界大百科事典 「駅伝制」の意味・わかりやすい解説

駅伝制 (えきでんせい)

中央から辺境にのびる道路にそい,適当な間隔で人・馬・車などを常備した施設すなわち駅を置き,駅を伝わって往来する交通・通信の制度。世界史上,前近代に広大な地域を支配する中央集権国家が成立すると,外敵の侵入や国内の反乱に直ちに対処するばあいを含め,支配維持のために中央と地方とを常時連絡する手段が必要となり,さまざまな形態の駅伝が制度として定められるのが一般であった。このように駅伝制はもともと前近代における支配手段の一種であったから,国家の管理下に置かれて民間の自由な利用は許さないのが原則であり,また国家権力の解体とともに衰退していった。近代になると,持続力のある動力機関や瞬時に連絡しうる通信機関が発明された結果,駅伝の必要がなくなって消滅した。

日本古代の駅伝制は車を欠き馬と人のみによるが,朝廷が関与した駅制と,国郡に管理させた伝馬制とに分けられる。まず駅制の萌芽は,6世紀末から7世紀前半にかけて大和朝廷の全国支配が進み,大陸に隋・唐の大帝国が出現して朝鮮半島を圧迫しはじめたころ,北九州の出先官庁と大和朝廷との間の連絡を緊密にする必要が生じ,朝廷の発行した駅鈴(えきれい)を携帯した官人に途中の国造が便宜をはかるという形で発生したと思われる。大化改新後,7世紀後半の律令国家形成期には,駅鈴によって駅馬を利用しうる道を北九州との間だけでなく東国へも延ばしはじめたようであるが,8世紀初頭の大宝令では唐を模範とした駅制を全国に拡大することとした。すなわち朝廷は特別会計の駅起稲(えききとう)・駅起田(えききでん)(後の養老令では駅稲・駅田)を各国に設置させ,これを財源として畿内の都から放射状に各国の国府を連絡する東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の7道をそのまま駅路とし,駅路には原則として30里(約16km)ごとに駅を置かせ,駅ごとに常備すべき駅馬は大路の山陽道で20匹,中路の東海・東山両道で10匹,他の4道の小路では5匹ずつとし,駅の周囲には駅長や駅丁を出す駅戸を指定して駅馬を飼わせ,駅家(うまや)には人馬の食料や休憩・宿泊の施設を整え,駅鈴を貸与されて出張する官人や公文書を伝送する駅使が駅家に到着すれば,乗りつぎの駅馬や案内の駅子を提供させることとした。その結果,もっとも速い飛駅(ひえき)/(ひやく)という駅使は,大宰府から4~5日,蝦夷に備えた陸奥の多賀城からでも7~8日で都に到着することができた。このような駅制の利用が急を要する公務出張や公文書伝送に限られたのに対し,国司の赴任や国内巡行などは伝馬制によった。すなわち伝馬制は,各国の国府と郡家(ぐうけ)を連絡するために,各郡家に5匹ずつの伝馬を常備させ,郡家周辺の一般民家には伝馬を飼わせるとともに雑徭(ぞうよう)の一種として伝馬丁を出させ,伝符(てんぷ)を携帯した中央官人や国司が来れば伝馬や伝馬丁を提供するという制度であった。駅制が律令国家の強力な中央集権的支配のもとで急速に展開したのにくらべて,伝馬制の維持管理は国造の子孫である郡司たちの古来の実力によるところが大きかったから,国家権力を背後にした国司が郡司を圧迫し弱体化させる傾向の強かった律令時代には,比較的早くから維持管理が困難となったようで,10世紀初頭の延喜式で伝馬が置かれているのは全国で590あまりの郡のうちの4分の1にも満たなくなっていたが,駅制も律令国家と同時に衰退しはじめ,10世紀後半には飛駅の派遣もまれとなり,11世紀にはほとんど機能しなくなった。しかしそのころから発達してきた民間の商品流通は,交通の要地にあった駅の跡に宿(しゆく)を発達させ,商人や一般の旅行者が利用できるようになり,鎌倉幕府東海道の宿に周囲の荘園から人馬を提供させて京と鎌倉の間の公用の連絡に用い,さらに江戸幕府は江戸を中心に東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中五街道を整備して,宿場の中継による公私の交通や飛脚(ひきやく)による公私の通信の便宜をはかった。
宿駅
執筆者:

中央集権国家体制の下にあった前中国においても,駅伝は古くより発達して,その網は全国にはりめぐらされていた。主要道路には一定の距離ごとに施設が設けられ,宿泊設備や交通手段を提供し,旅行者や物資を逓送(ていそう)した。もともと駅とは騎馬により,伝は車馬によるものという。また人夫の徒歩によるものを郵という。駅は単に交通上の施設のみならず,地方における警察・行政上の機能も果たす地域中心でもあった。また辺境地帯にあっては軍事的機能も大きかった。

 ところで駅伝制は広範囲にわたる中央集権的統一を前提とするため,小国分立の時代には発達しえないものであるが,その原型は先秦時代にみえる。周の制度にそれに相当するものがうかがえるし,戦国時代には各国で実際に設置されていたことを示す資料がある。安徽省寿県で発見された〈鄂君啓節〉は楚国の水路陸路の通行証であったと考えられる。一般的には,このころの駅伝は各国間の抗争連合に際しての軍事的機能を第一としたもので,秦の全国統一にあたっても,これの果たした役割が大きかったものであろう。秦代には都の咸陽から馳道(ちどう)と呼ばれる大道が放射状に延び,今もその遺構が見いだされる。漢代には原則として30里(約12.4km)ごとに駅が設けられ,駅馬が置かれて通行証を交付された地方官人などの公用に利用された。駅の経費は馬口銭という税金によった。また駅より小規模なものとして,亭という施設もあった。三国より南北朝にかけての時代は,各王朝で部分的に制度が維持された形跡はあるものの,交通一般の中で大きな意味をもつ存在ではなかった。地域の盛衰に応じて交通路も変化し,民間の交通に比重が移っていた。

 隋・唐代は国の範囲も拡大し,領域内の交通は社会の安定に深くかかわりがあった。また南方の開発がすすんだため,陸路だけではなく運河・河川の水路が交通体系の中に組み込まれた。交通制度も細かく整備され,その様子を詳しく知ることができる。唐制では駅は漢と同じく30里(約13.6km)ごとに置かれ,長安の都亭駅をはじめ全国で1639駅(うち水駅260,水陸両用86)が存在した。各駅はその重要度に応じて1等から6等のランクに分けられ,それぞれに60匹から8匹の駅馬と,それに応ずる駅夫が置かれ,駅舎は地方でみるべき豪壮なものであった。水駅も同様に舟が置かれた。これらの施設の維持には,決められた税額が民ごとに徴収され,ほかに駅馬を養うための駅田,駅伝の用務にあてられる駅戸・駅家などが置かれた。古代日本の律令制に取り入れられた駅家制は,この唐制を模倣したものである。やがて国内の混乱とともに官製の駅伝制は実体を失っていくが,一方で民間の交通の発達を促進し,駅を核とするような地方の中小中心都市が生まれてゆく契機となる。

 宋代は官製の制度は交通一般のためのものから,中央からの情報伝達や軍事上の機能に限定されたものになる。これは地方都市の発達による民間も含めた交通設備の充実と,中央集権的官僚機構の発達によるものであろう。とくに幹線路には急事のときに用いる急逓鋪が10里ごとに設けられ,逓夫も民間の百姓ではなく軍卒が用いられたが,一般の駅は60里(約27.2km)ごとを原則とし,往々にしてこれも守られなかった。元代にはモンゴル帝国全域にわたり統一的に施行された駅伝制(ジャムチ)が中国にも適用され,全国に站(モンゴル語の音訳)が置かれた。しかし部分的には宋以来の制度も残され,一部には遼・金の影響も見られる。このように複雑な来歴をもつ制度を,明は郵駅として統一的に整備し,それが基本的に清にも受けつがれた。郵駅は鋪逓と駅逓の二つの機能をもち,前者は徒歩により官文書を逓送し,後者は馬により官文書・官物の逓送と,公務にある官人を護送するものであった。駅逓にたずさわる施設は,駅,站,塘,台,所などと呼ばれ,清代には2000近くあり,鋪逓はモンゴリア・新疆など異民族地域には設けられず1万5000近くあった。各駅には一般に10~100程度の馬夫と駅馬が置かれ,それに応じた下級官吏があった。各地点間の運賃はほぼ定額があり,官文書の逓送に応じて国庫より駅に支給された。これが近代的な郵便交通制度に代わるのは清末になってからである。
執筆者:

王の通信や行政連絡,交易品の輸送に古くから早飛脚が利用されていたが,駅伝の存在が確証されるのはアッシリア帝国時代である。もっとも完備した駅伝制はペルシア帝国において成立した。スーサ~サルディス間の有名な〈王道〉のほかにも,スーサと帝国諸州を結ぶ主要道路には,1日旅程ごとに宿駅が置かれていた。〈王道〉にはだいたい4パラサンゲスごとに111の宿駅があった。パラサンゲス(約5.5km)という距離の単位名は,中世ペルシア語フラサングをへてアラビア語ファルサフに伝えられた。公用旅行者は旅券を提示して毎日の糧食を受けとり,ときには道案内人がつけられた。また,早馬の飛脚用に1日行程ごとに馬1頭と人員1名が配置され,一般の旅行に3ヵ月を要した〈王道〉も1週間で通信が伝達された。古代ペルシアの駅伝制は,のちにササン朝を経てイスラム世界に伝えられたばかりでなく,ヘレニズム国家を通じてローマの駅伝制に影響を与えた。
執筆者:

古典期ギリシアには組織的な駅伝制は存在せず,各ポリスがそれぞれ公の通信のための船舶あるいは飛脚(伝令)を保有した。アケメネス朝ペルシアにおいて発達した駅伝は,セレウコス朝シリアとローマ(東方)に受けつがれるが,とくにローマにおいて制度として確立する。なおプトレマイオス朝エジプトでは,公用便に関して,駅場網や馬の整備による早飛脚および普通便の制が完備した。

 共和政期のローマでは,郵便は公私それぞれ,おもに奴隷または解放奴隷からなる飛脚によって運ばれたが,東方,とくにエジプトの制度を範にアウグストゥスによって駅伝の制度が整えられた。本来は軍事的な目的から,しかししだいに広く,人間および郵便の輸送が組織化されてゆく。輸送量を重んずる車便(牛が大型の車をひく)とスピードを重んずる早飛脚(ラバが車をひき,馬が人を運ぶ)の二つの型があったが,いずれも国家のためのもので,公用の使者,役人,軍人,キリスト教の普及とともに聖職者などのうちとくに許可証を交付された者だけが利用できた。ローマ帝国内にはりめぐらされた道路網を利用し,街道には駅場として50マイル(1マイル=約1.6km)ごとに宿泊場が設けられ,後には宿泊場の間に輓獣をかえるための小駅もつくられた。したがって普通便の1日の行程はほぼ50マイルであったが,至急便の場合,日に150マイルの例もあり,ライン軍団蜂起の知らせは9日でガルバ帝のもとに届いている。

 帝国各地の駅伝施設の管理には駅制管理官または検察官(アゲンテス・イン・レブスagentes in rebus)があたり,駅場を整備し,とくに車の輓獣を整えるのは属州長官の責任であった。しかしこの制度にはセウェルス朝時代に軍隊の食糧調達の1項が加わり,制度,機構も拡大し,その保持はしだいにローマ帝国にとり大きな経済的な負担となってゆく。帝国の分裂,西ローマ帝国の滅亡後,中世のヨーロッパ世界にはローマ帝国時代にみられた規模の駅伝制を生むことはなかった。
執筆者:

イスラム社会の駅伝制はバリードbarīdと呼ばれる。ウマイヤ朝の初代カリフ,ムアーウィヤ1世(在位661-680)がササン朝ペルシアやビザンティン帝国の駅伝制を踏襲し,第2次内乱(683-692)を平定した第5代カリフ,アブド・アルマリク(在位685-705)はこれを組織化して帝国統治のかなめとした。アッバース朝時代になるとバリードはさらに重要な政府機関となり,第2代カリフ,マンスール(在位754-775)はバグダードに駅伝庁dīwān al-barīdを設置するとともに,地方の主都にも駅伝局を置いてそれぞれに腹心の部下を配した。彼らは公文書の伝達ばかりでなく,地方総督や裁判官の活動のようす,毎日の物価の動きなどを書き送る義務を負っていた。これらの情報は中央の駅伝庁に集められ,これによってカリフはいながらにして全国の動静を的確に把握することができたのである。バリードの駅舎はイランでは2ファルサフ(12km)ごとに,イラクやシリアでは4ファルサフごとに置かれるのが原則であった。9~10世紀のアラブの地理書によれば,これらの駅舎は全国で930余を数えたという。交通手段として一般にイランではラバが,西方のアラブ地域ではラクダが用いられ,危急の場合には馬や伝書バトが利用された。これらの施設の使用は公的な任務を帯びる者に限られたが,バリード網の整備は旅の安全性を高め,民間の商業活動を促進する大きな要因となった。

 10世紀半ばにバグダードに入城したブワイフ朝は,カリフの情報源を断ち切るためにバリードの廃止に踏み切った。次のセルジューク朝もこの政策を踏襲し,これらの王朝では必要に応じて飛脚や密使が派遣された。アイユーブ朝にも整備された駅伝制はなく,かつてのバリードが再建されるのは,エジプト・シリアにマムルークの政権が樹立される13世紀半ば以後のことである。マムルーク朝の第5代スルタン,バイバルス1世(在位1260-77)は,十字軍やモンゴル軍の動静を探るために,アッバース朝とモンゴルの駅伝制(ジャムチ)の伝統をとり入れて新たなバリードを組織した。最初のバリードはカイロ~ダマスクス間に設置されたが,やがてエジプト国内やシリアの北部および海岸地帯へも順次拡大していった。4ファルサフごとに置かれた駅舎には,使者や馬丁が配置され,周辺の遊牧部族にはこれに馬を供給することが義務づけられた。カイロ~ダマスクス間の通常の旅程が7日であったのに対して,バリードを用いればこの区間は4日であり,さらに急を要するときには伝書バトが用いられた。バイバルスは1週間に2回バリードによるカイロへの情報の送付を義務づけ,これによって中央集権的な体制の確立をはかったのである。ティムールのシリア侵略(1400)によってバリードは破壊され,これ以後は飛脚や早ラクダの使用が一般化したが,16世紀になるとサファビー朝やオスマン朝で再びバリードが復活した。
執筆者:

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「駅伝制」の解説

駅伝制(えきでんせい)

前近代の交通・通信制度の一形態。支配地域の主要道路には一定の距離ごとに施設が設けられ,宿泊施設,交通手段を提供し,旅行者や物資を搬送した。モンゴル帝国は支配地域にジャムチ(漢字では站赤と表記)と呼ぶ駅伝制をしき,やがて中国にも適用,元朝治下では站戸(たんこ)が民戸100戸をもって編成され,車馬・食糧を供給した。なお站は駅を意味し,その利用には牌符(はいふ)の携行が必要であった。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の駅伝制の言及

【ウマ(馬)】より

…中国の万里の長城,またローマ帝国の東方防衛のための城塞(じようさい)(リメスlimes)は,中央アジアから押し出てくる騎馬民族に対する防衛線として構想された大土木工事である。また北欧にまで延々とのびるローマ道は,駅伝制を伴う馬による情報伝達の飛躍的増加と無関係ではない。その模範は古代ペルシア帝国ダレイオス1世の小アジアからペルセポリスまでの二千数百kmに及ぶ道路建設にあり,彼は統治のための伝令馬の使用と宿駅の完備においてよく知られている。…

【クルスス・プブリクス】より

…ローマ帝国の駅伝制度。共和政期には政務官も私人も自分の召使を派遣して通信せねばならなかった。…

【宿駅】より

…大化以後,天武紀には駅家(うまや)や駅鈴のことがあるが,これも不詳である。駅伝制が整うのは大宝令以降の成文法の成立をまたねばならない。令制によれば,中央政府と大宰府や国府を結ぶ交通路が整備され,山陽道ほかの七道には原則として30里(後の約4里,16km)ごとに駅を置き,駅には駅長,駅子,駅馬などを置いた。…

【郵便】より

…広大な帝国の統一のため情報の伝達と収集が重要になり,リレー方式による伝令制が開設された。ペルシアのこの制度をならったローマの駅伝制はクルスス・プブリクスcursus publicus(公共便)と呼ばれ,馬と馬車が用いられた。軍事・政治上の要請から出たもので,当然のことながら公的な通信のためのものであった。…

※「駅伝制」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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