高島炭鉱跡(読み)たかしまたんこうあと

日本歴史地名大系 「高島炭鉱跡」の解説

高島炭鉱跡
たかしまたんこうあと

[現在地名]高島町高島

現在の高島町に属する高島にあった炭鉱。島とともに島全体が炭鉱であることで知られ、良質の石炭を採炭した。採掘鉱区は二二ヵ所の一万二四八〇ヘクタール、出炭の八割は弱粘結原料炭で、ガス・コークス用として九州・大阪方面で消費された。現在は閉山。元禄年間(一六八八―一七〇四)平戸領の五平太がまぶ(間歩、炭穴)を開いて採炭を始め、諸方の塩浜に出して利潤をあげたことから、領主支配としたという。この石炭は臭気なく燃焼し、炎の当りが柔らかく、大坂・伊予や中国方面などに二〇反帆船二五艘で海送し、日本一の石炭と評判をとっていた。当時のまぶ数は六ヵ所で、浜方に深堀家の詰役所が置かれ、近所に町人が諸色屋を出して金銀の両替などを行っていたという(高島炭山関係文書抜書・高島記)。あるいは宝永二年(一七〇五)平戸領深江ふかえ(現未詳)の五平太が高島で石炭を採掘、付近の塩田に供したという(「日本炭砿誌」「本邦重要鉱山要覧」など)。五平太は肥前佐賀藩深堀鍋島家に仕えていた者で、同七年忠勤の賞として高島を与えられ、野焼の際に黒石に引火するのを発見、燃石と称して領主に献上するとともに深堀領民に供し、のち同家家臣と共同で採掘、近郷のみならず、伊万里焼・波佐見焼などの製陶用燃料、四国・中国の塩焼用材として産量を拡大したという(高島町文化史)。石炭を五平太、石炭を積むダンベイ舟を五平太舟とよぶのもこれら伝承に関連するものであろう。

宝暦一〇年(一七六〇)佐賀藩深堀領蚊焼かやき(現三和町)幕府領野母のも村・高浜たかはま(現野母崎町)との相論は安永二年(一七七三)に解決するが、その過程で高浜村は高島で石炭を採掘し、深堀ふかほり(現長崎市)に運上を納めていたとしている(安永二年「境界取掟書」長崎図書館蔵)。天明七年(一七八七)鍋島家は高島炭の長崎市中での販売を烏山平次郎に許可(「深堀城島家文書」高島炭坑資料)。文化一〇年(一八一三)九月、伊能忠敬の測量隊一行は香焼こうやぎ(現香焼町)に属する鷹島を測量、石炭掘小家五軒があるという(伊能忠敬測量日記)。同一四年佐賀藩の直営となったとされるが、同一五年当時は炭坑数六ヵ所で、鍋島家家臣が二人ずつ詰め、その近くに深堀町人の諸色屋・両替屋などが営まれていた(高島町文化史)。文化九年「高島炭山方」の定船二五艘の船頭中が深堀問屋を世話人として航海安全を祈願、高島神社に鳥居を寄進。天保四年(一八三三)高島炭山方の深堀勘右衛門から安芸いん(現広島県因島市)の喜福丸(二〇反帆船)、伊予勢浜(現未詳)の住徳丸(二二反帆船)が「高島生炭」の積出しの許可を受けている(「免札」高島炭山関係文書抜書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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