大阪市中央区を北から南へ貫流する東横堀川に架かる橋。東高麗橋と高麗橋1丁目とを東西に結ぶ。創架年代は未詳であるが,東横堀川は豊臣秀吉の大坂城下町建設にともない,1585年(天正13)に開削された運河であること,1615年(元和1)大坂夏の陣のとき,安藤重長が戦利品として持ち帰ったという〈慶長九年甲辰八月吉日,御大工奉行吉久〉と刻銘の擬宝珠が現存し,高麗橋またはその前身の橋の擬宝珠と推定されていることなどから,近世初頭とする説が有力。江戸時代には難波(なにわ)三大橋と称された天満橋,天神橋,難波橋など11橋とともに,幕府の費用で改築・修理する公儀橋に指定されていた。大坂三郷市街の中心部に位置し,高麗橋通りは大呉服商,両替屋,本屋,紙屋などが軒を並べ,交通量も多い繁華街であったため,公儀橋のなかでもとくに重要視され,大坂から他所・他国への里程や,伝馬・駄馬など,すべてこの橋を起点とした。また西詰には高札場が設けられたが,制札の種類も三郷市中の高札場中で最も多く,親子札,毒薬札,切支丹札,火事札,駄賃札,火付札,抜荷制札,荷物之次第札の8種が掲げられていた。高札場の西には矢倉屋敷と呼ばれる高い建物があり,大坂の奇物として有名であった。幕末には幕府の外交や内治を批判し,あるいは庶民の困窮を訴えるはり紙がたびたび掲示された記録がある。明治維新後,本木昌造から鉄橋の利点を聞いた大阪府知事後藤象二郎は,1868年(明治1)イギリス商社と契約して橋の架替えに着手,1870年9月完工した。これは大阪最初の鉄橋であった。76年には東詰に里程元標が設置され,1922年大阪市役所前に移されるまで,西日本主要道路の距離計算は,この元標を起点として行われていた。鉄橋は60年にわたって利用されたが,老朽化のため29年鉄筋コンクリートアーチ橋に架替えられ,現在に及ぶ。
執筆者:藤本 篤
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大阪市中央区、東横堀川に架かる橋。名前の由来は朝鮮からの使者を迎えるために架けたとか、橋の東側に難波高麗館があったからだとかいう。大坂城と船場(せんば)を結ぶもっとも重要な橋で、幕府が架橋した公儀橋の一つ。橋の西詰に高札場があり、東詰には里程元標があった。高麗橋通りには両替商や呉服商が多く、江戸時代、大坂の商業の中心であった。1870年(明治3)本木昌造(もときしょうぞう)の設計で、大阪で最初の鉄橋が架けられた。
[安井 司]
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
…また主家から暖簾を分けてもらって営業する場合,同じ商売が許されない場合もあるが,主家の営業の下請など補完部門の役割をもつことがある。大坂の高麗橋1丁目には,呉服営業の越後屋のほかに同じ屋号,暖簾印をもつ糸店,鼈甲店,紙店,紅白粉店,塗道具店,鏡店などがあったという。また借家人のなかには縫仕立屋などの職人が居をかまえていた。…
※「高麗橋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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