ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
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近世前期からの豪商として古い歴史をもち、第二次世界大戦前、日本最大の財閥を形成した家。先祖は近江(おうみ)(滋賀県)の六角(ろっかく)佐々木氏の家臣といわれ、のち佐々木氏から養子を迎えたのでその紋所四ツ目を家紋とし、佐々木神社を氏神としている。佐々木氏没落後、伊勢(いせ)(三重県)に移り、三井越後守高安(えちごのかみたかやす)(1610没)の子則兵衛高俊(のりへえたかとし)(1633没)のとき松坂(松阪市)で質屋、酒屋を始めた。高俊の妻殊法(しゅうほう)(多気(たき)郡丹生(にゅう)村永井氏)は商才に富んだ気丈な女で、商家としての三井家の実際の創業者であった。その長男三郎左衛門俊次(としつぐ)は早く江戸へ出て呉服商として成功した。初め兄の店を手伝い、のち松坂に戻って独立し、金融業を営んでいた末弟高利は、1673年(延宝1)長兄の没後、別に江戸本町一丁目(東京都中央区)に呉服店越後屋(えちごや)を開業し、京都に仕入店(しいれだな)を設けた。1681年(天和1)ころ暖簾(のれん)印を改め、さらに1683年には店を駿河(するが)町に移して、「現銀安売無掛値(かけねなし)」の革新商法を掲げると同時に両替店を創設。幕府の公金為替(かわせ)を引き受けるなどのことによって、急激に繁栄した。高利は没年(1694)2月遺言して、子息たちに遺産配分の割歩(わりふ)を定めるとともに、分割を行わないことを強く希望した。高利の遺志は、家政と営業を一元的に統轄する機関として「大元方(おおもとかた)」設置(1710)と、2代高平(法名宗竺(そうちく))の遺書「宗竺遺書」(1722)によって制度化され、「本家六軒、連家(れんけ)三軒、合九軒」の同族による家産の共有、共同経営の様式が固められた。この制度はその後18世紀の末ごろ20年余り2分割された時期を除けば、原理として第二次大戦後の財閥解体のときまで維持された。江戸時代の後半に、三井家の経営は、生糸、絹織物、綿花、木綿の集荷網を全国に張り、かつ問屋商人に対する商業金融を手広く営んで事業を拡張したが、幕末に近づくにつれて事業の不振、たび重なる御用金の賦課などに苦しんだ。しかし明治維新期には討幕派を支援し、新政府の財政政策に協力し、やがて政商から財閥へと発展する素地を築いた。
[三井礼子]
…【佐々木 銀弥】
[江戸の伊勢商人]
確実な史料によっても寛永期ころには伊勢の丹生(にう),射和,相可(おうか),松坂,津からの木綿を取り扱う商人の出店が大伝馬町1丁目に開店していることがわかる。後に豪富を誇った三井家にしても,本家筋にあたる三郎左衛門家が江戸本町2丁目に出店するのは寛永年間である。こうした伊勢商人の江戸進出は,決して孤立して行われたのでなく,相互の緊密な連携によっていたのである。…
…元禄期(1688‐1704)の投機型商人として一代で産をきずいた奈良屋茂左衛門の1714年(正徳4)の遺言状は,死後の財産管理についての指針を示した家法の先駆的なものといえる。17世紀以降三都に呉服・両替店を設けた三井家の家法は,初代高利の1694年の遺書を祖型とし,1722年(享保7)2代高平の《宗竺遺書》によって確定したといわれ,また大坂随一の豪商鴻池家の場合も,その家法とされる23年の《家定記録覚》は経営の基礎を固めた3代宗利の作成した《先祖之規範幷家務》を集大成したものである。両家家法の内容はそれぞれ個別のものではあるが,その骨子は同族経営の安定性を確保するための家制度のあり方,具体的にいえば,親族・同族の範囲の規定,家督相続法,家産の管理・運営にかかわる定律であり,それを支える営業面での経営方針の明確化,経営組織の合理化・整備,家長の独裁・恣意を抑制する合議制の導入,奉公人の雇用制度・服務規定・冠婚葬祭等に関する精細な規定を伴うものであった。…
…店によっては本店支配人,店々支配人,後見支配,支配脇などがあった。三井家では雇人の制は,大取締―取締―加判名代―元方名代―勘定名代―名代―後見人―支配役―支配人―組頭―役頭―上座―手代―子供などこまごまとした職階があった。鴻池家では支配人のほか支配役,支配判形役などの名称があり,また,支配人の主だった者を老分(おいぶん∥ろうぶん)などと称した。…
…この財産勘定のほか,純資産額と前期末純資産額とを比較して資産の増減を確認する方式や,期末の純資産から諸経費を差し引き,純益を求める損益計算を行っている例もまれではない。3都に活躍した三井家,大坂の鴻池家,江州日野の中井家などの帳合法は,記帳法においては西洋式簿記のような取引の貸借複記の形式をとっていないが,原理的には財産勘定と損益計算からなる複式決算構造をもつ,きわめて合理的な決算簿として評価されている。【鶴岡 実枝子】。…
…1730年前後(享保期後半)の成立。北三井家代高房が重役手代中西宗助の勧めにより,父高平から同人70年来の町人盛衰の見聞記事(17世紀中期以降の京都商人の隆替事例)の書き下しを得,これに序跋を加えたもの。三井家でも家訓として伝存したものではなく,いわば家訓の資料編的性格をもち,一般にも伝写流布した。…
…こうして奉公人が主家から暖簾を分けてもらう場合,貢献度によっていろいろと区別されていた。三井家(越後屋)の場合,奉公人のトップクラスである元〆(もとじめ),名代,支配人,それに本店組頭を務めた者は越後屋の屋号と暖簾印に丸に井桁三の文字を使うことが許された。本店以外の店の組頭とか役頭,上座の者といった中間管理職的な立場を務めた者へは,屋号は越後屋だが,暖簾印に丸なしの井桁三の文字が許されている。…
…これによって東新田面積45町(皆畑),高456石,中新田面積14町(田42%,畑58%),高150石,西新田面積21町(皆畑),高215石の耕地が造成された。開発後に三井家の所有となり,新田経営には新田会所を設け,下作人と呼ぶ新田直属の小作人を置いて耕作させ,同時に周辺本田村落の居住者にも小作人として出作りさせた。3新田の畑はすべて綿作にあてられ,東新田では〈当新田ハ皆畑木綿作ニて御座候〉(天明7年(1787)村明細帳),中新田では〈当新田木綿作四分余ニ而御座候〉(同),西新田でも〈畑 木綿作〉(天明2年村明細帳)という状況にあった。…
…活動力は大坂に比べて弱く,幕末にかけて40人から10人に逓減した。そのなかで御為替御用達を務めた三井家が最も栄えた。銭両替は5組の仲間があり,為替や金銀両替も扱った(本両替とは緊密)。…
※「三井家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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