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鶴峯戊申 つるみね しげのぶ

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美術人名辞典の解説

鶴峯戊申

国学者。通称和佐治・左京・彦一郎、字は世霊・季尼、号は皐舎・中橋・海西等。豊後臼杵生。山田以文小山田与清平田篤胤らに師事。仏教・蘭学に通じ国学では音韻に通暁。水戸藩主徳川斉昭の知遇を得、藩士に列せられる。著書に『語学新書』『天の真はしら』等がある。安政6年(1859)歿、72才。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

鶴峯戊申 つるみね-しげのぶ

1788-1859 江戸時代後期の国学者。
天明8年7月22日生まれ。京都で山田以文(もちふみ)にまなぶ。天保(てんぽう)3年江戸で究理塾をひらく。晩年は水戸藩和書編集所につとめた。安政6年8月24日死去。72歳。豊後(ぶんご)(大分県)出身。字(あざな)は世霊,季尼。通称は左京,彦一郎。号は皐舎,海西。著作に「語学新書」「究理或問」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

鶴峯戊申

没年:安政6.8.24(1859.9.20)
生年:天明8.7.22(1788.8.23)
江戸後期の国学者,究理学者。通称左京,和左治,彦一郎。字は世霊,季尼,号は皐舎,中橋,海西。豊後国(大分県)臼杵八坂神社神主鶴峯宜綱の長子。幼少にして叡悟で,和漢の訓詁注釈に興味を示し,臼杵藩儒者武藤吉紀に師事する。17歳のとき上京,綾小路俊資に和歌を,村上円方,山田以文に国学を学び,特に以文の学から考証主義の影響を受けた。21歳で再上京,有職故実に詳しい橋本経亮交わり,陰陽頭安倍晴親の塾に入って天文究理の知識を得た。このころ地動説など西洋究理学に興味を示し始めた。文化12(1815)年,29歳のとき大坂に下り,出版活動の傍ら講説生活,以来諸国で講説をした。天保3(1832)年,45歳で江戸に下り「究理塾」を開き,平田篤胤などと交わりがあった。その後も精力的に著作,講説をこなし,51歳で水戸藩主に著述を献上,念願の謁見がかなった。弘化1(1844)年には林家に入門。このころから開国論を主張して,水戸藩主らに上申している。安政3(1856)年には正式に水戸藩士として抱えられた。戊申の学問の特徴は和漢の訓詁考証と西洋の究理学を結び付けた点にあり,その成果として『語学新書』『究理或問』などの著作を遺した。<参考文献>藤原暹『鶴峯戊申の基礎的研究』

(飯倉洋一)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

鶴峯戊申
つるみねしげのぶ

[生]天明8(1788).7.22. 豊後
[没]安政6(1859).8.24. 江戸
江戸時代後期の国学者,言語学者。通称は和佐治,左京,のち彦一郎。字は世霊,季尼,号は皐舎,海西。豊後臼杵の郷社八坂神社神主,宜綱の子。文化1 (1804) 年 17歳で上京し,和歌を綾小路俊資に,暦算を陰陽頭安倍氏に学び,国学を小山田与清,平田篤胤に学んだ。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

鶴峯戊申
つるみねしげのぶ
(1788―1859)

江戸後期の国学者。通称は左京、彦一郎。字(あざな)は世霊、季尼。号は海西。天明戊申(てんめいぼしん)8年、豊後(ぶんご)(大分県)臼杵八坂(うすきやさか)神社神官鶴峯宜綱(のぶつな)の子として生まれる。15歳のころ本居宣長(もとおりのりなが)の著作を読み、古学にあこがれる。17歳の1804年(文化1)京都に上り村上圓方(むらかみえんぽう)、山田以文(やまだいぶん)(1761―1835)らに国学を学び、古訓の世界を深めた。1809年、当時伝来の西洋天文新説である地動説に接し、その日本古訓の世界に合致することに驚くとともに、西洋科学と古伝考証の習合に努めた。『徴古究理(ちょうこきゅうり)』『究理或問(わくもん)』はその成果である。のち平田篤胤(ひらたあつたね)との間に剽窃(ひょうせつ)論争をおこすが、その因もここにある。一方、オランダ文法の知識により日本語を九品九格に分類し、『語学新書』(1831成立)にまとめる。1832年(天保3)45歳で江戸中橋南大工町に究理塾を開き、門下奥村喜三郎(生没年不詳)を通して、高野長英(たかのちょうえい)、渡辺崋山(わたなべかざん)の新知識に接する。また水戸彰考館(しょうこうかん)の立原杏所(たちはらきょうしょ)(1786―1840)と交わり、水戸藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)の知遇を得、小石川水戸藩史館で編集校合御用を勤める。1849年(嘉永2)7月『内密問答書』を斉昭に献じ、外国との通商開国を唱える。なおキリスト教にも関心をもった。安政(あんせい)6年水戸藩邸にて没す。[藤原 暹]

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