江戸後期の国学者。通称は左京、彦一郎。字(あざな)は世霊、季尼。号は海西。天明戊申(てんめいぼしん)8年、豊後(ぶんご)(大分県)臼杵八坂(うすきやさか)神社神官鶴峯宜綱(のぶつな)の子として生まれる。15歳のころ本居宣長(もとおりのりなが)の著作を読み、古学にあこがれる。17歳の1804年(文化1)京都に上り村上圓方(むらかみえんぽう)、山田以文(やまだいぶん)(1761―1835)らに国学を学び、古訓の世界を深めた。1809年、当時伝来の西洋天文新説である地動説に接し、その日本古訓の世界に合致することに驚くとともに、西洋科学と古伝考証の習合に努めた。『徴古究理(ちょうこきゅうり)』『究理或問(わくもん)』はその成果である。のち平田篤胤(ひらたあつたね)との間に剽窃(ひょうせつ)論争をおこすが、その因もここにある。一方、オランダ文法の知識により日本語を九品九格に分類し、『語学新書』(1831成立)にまとめる。1832年(天保3)45歳で江戸中橋南大工町に究理塾を開き、門下奥村喜三郎(生没年不詳)を通して、高野長英(たかのちょうえい)、渡辺崋山(わたなべかざん)の新知識に接する。また水戸彰考館(しょうこうかん)の立原杏所(たちはらきょうしょ)(1786―1840)と交わり、水戸藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)の知遇を得、小石川水戸藩史館で編集校合御用を勤める。1849年(嘉永2)7月『内密問答書』を斉昭に献じ、外国との通商開国を唱える。なおキリスト教にも関心をもった。安政(あんせい)6年水戸藩邸にて没す。
[藤原 暹 2016年6月20日]
(飯倉洋一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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