鷲尾雨工(読み)ワシオウコウ

デジタル大辞泉 「鷲尾雨工」の意味・読み・例文・類語

わしお‐うこう〔わしを‐〕【鷲尾雨工】

[1892~1951]小説家新潟の生まれ。本名、浩。直木三十五とともに出版社を設立するが、失敗。その後、実証的な手法で描く歴史小説で高い評価を得る。「吉野朝太平記」で直木賞受賞。他に「明智光秀」「甲越軍記」「若き日の家康」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

20世紀日本人名事典 「鷲尾雨工」の解説

鷲尾 雨工
ワシオ ウコウ

大正・昭和期の小説家



生年
明治25(1892)年4月27日

没年
昭和26(1951)年2月9日

出生地
新潟県西蒲原郡黒鳥村(現・新潟市)

本名
鷲尾 浩

学歴〔年〕
早稲田大学英文科〔大正4年〕卒

主な受賞名〔年〕
直木賞(第2回)〔昭和11年〕「吉野朝太平記」

経歴
代々医師を営む家に生まれる。幼い頃に父を失い、母の生家のある小千谷に移り住む。早稲田大学英文科に進み、同級には直木三十五、木村毅青野季吉坪田譲治、西條八十らがいた。早くから歴史に興味を持つ傍ら、ロシア文学や西欧文学にも目を開き、在学中にダヌンツィオ「フランチェスカ・ダ・リミニ」を翻訳・刊行した。大正4年恩師の相馬御風の紹介で平尾賛平商店広告部に勤務。のち春秋社を設立、8年からは独力で冬夏社も経営。同社の経営には親友の直木も取締役として加わったが、直木の金銭的無軌道が災いして仲違いし、生涯うち解けることはなかった。関東大震災を機に一時帰郷するが14年再び上京。昭和10年直木の「南国太平記」に発憤して南北朝時代の武将・楠正儀を描いた「吉野朝太平記」を発表、文壇に復帰。11年同作で第2回直木賞を受賞。その後、大衆文学作家として活躍した。他の作品に「妖啾」「明智光秀」「豊臣秀吉」「直江兼続」「開拓者秀衡」「武家大名懐勘定物語」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「鷲尾雨工」の意味・わかりやすい解説

鷲尾雨工
わしおうこう
(1892―1951)

小説家。新潟県西蒲原(にしかんばら)郡黒埼(くろさき)村(現新潟市)に生まれる。本名浩。早稲田(わせだ)大学英文科卒業。幼少年期から史談史話に親しみ、歴史に対して一家言をもつ。一時、事業に身を入れたが失敗。1935年(昭和10)から40年にかけて書き下ろし長編『吉野朝太平記』全6巻を発表。これによって第2回直木賞を得、歴史小説家として認められ、作家としての地位を確保した。以後、大衆向けの雑誌に多くの歴史小説を書く。『武家大名懐(ふところ)勘定物語』(1942)など、実証に支えられた好著で知られる。

[関口安義]

『『大衆文学大系26 鷲尾雨工他集』(1973・講談社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「鷲尾雨工」の解説

鷲尾雨工 わしお-うこう

1892-1951 大正-昭和時代の小説家。
明治25年4月27日生まれ。早大の同級生直木三十五とともに春秋社をおこし,大正8年には冬夏社を創立するが失敗。のち作家生活にはいり,昭和11年「吉野朝太平記」で直木賞。昭和26年2月9日死去。58歳。新潟県出身。本名は浩。著作はほかに「妖啾(ようしゅう)」「合戦小牧山」。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「鷲尾雨工」の解説

鷲尾 雨工 (わしお うこう)

生年月日:1892年4月27日
大正時代;昭和時代の小説家
1951年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android