鷹巣村(読み)たかのすむら

日本歴史地名大系 「鷹巣村」の解説

鷹巣村
たかのすむら

[現在地名]大石田町鷹巣

海谷かいや村の北、野尻のじり川北岸に位置し、最上川と野尻川の氾濫原に耕地が開け、段丘上に集落がある。野尻川が最上川に合流する付近の段丘上に鷹巣館跡がある。標高八〇メートル(比高一〇メートル)の台地に築かれた単郭方形式で、規模は約二町四方。東側・南側は幅約一〇メートル、高さ四、五メートルの土塁と幅約五メートルの堀で画されている。東側には土塁が切れた食違いの門跡が残されており、現在も館跡がほぼ原形をとどめている。最上氏系図(寛永諸家系図伝)には天童頼直の五男頼種が鷹巣殿と号したとあるので、館主は頼種であろう。しかし、詳しいことはよくわからない。

元和八年(一六二二)最上氏改易後は山形藩領、寛永一三年(一六三六)幕府領となる。正保郷帳では田高一千二九八石余・畑高九一石余。延宝二年(一六七四)の検地では田高一千三三〇石余・畑高一二九石余・新田高五九石余・新畑高一一石余(「村明細帳」星川文書)


鷹巣村
たかのすむら

[現在地名]東町鷹巣

長島の北東部に位置し、北東は海(八代海)に面する。「鹿児島県地誌」は字地としてふもと・鷹巣・みやうら(宮之浦)をあげ、ほかに当村北東の八代海に浮ぶ伊唐いから島も当村のうちであった。北は諸浦しようら村、西は浦底うらそこ村、南は川床かわとこ村。中心集落の鷹巣は行人ぎようにん(三九四メートル)の北麓に開けた小盆地に発達、宮之浦は八代海に面し、出水方面や伊唐島・獅子しし島方面への連絡湊であった。文禄四年(一五九五)四月二六日、対馬の宗義智に与えられた出水郡内知行方目録には長島のうちと肩書のある「たかのす村」高一六八石余が載り、ほかに「しゝかしま・宮のうら」として高五六石余がみえる。


鷹巣村
たかのすむら

[現在地名]白石市鷹巣・大鷹沢鷹巣おおたかさわたかのす寿山ことぶきやまみどりおか旭町あさひまち一―二丁目

西はさい川で白石本郷、東・北は寿山(手代てしろ山)とそれに続く丘陵地で犬卒都婆いぬそとば村・郡山こおりやま村、南は丸森まるもり街道を境に三沢みさわ村に接する。比較的小面積の村。北に山の内やまのうちと通称する丘陵地帯、南面にさととよぶ耕地が広がり、生活の場として好条件の地域で縄文期からの遺跡が散布する。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「四貫三百文 たかのす」とある。伊達氏天文の乱後には大町宮内小輔宛に「苅田たかのすの内、あしのまた在け一けん、高祖父持宗任御判形ち行いたすへき候也」と下文を与えている(晴宗公采地下賜録)


鷹巣村
たかのすむら

[現在地名]千種町鷹巣

千種川の支流志文しぶみ川の源流域、山に囲まれた盆地に位置し、北は黒土くろづち村・岩野辺いわのべ村。初め姫路藩領、慶長一八年(一六一三)備前岡山藩領、元和元年(一六一五)山崎藩領、慶安二年(一六四九)幕府領となる(「播州宍粟郡守令交代記」など)。享保六年(一七二一)幕府領姫路藩預地、寛保元年(一七四一)幕府領、延享元年(一七四四)大坂城代堀田正亮(出羽山形藩)領、同三年六月幕府領、同年一〇月幕府領三日月藩預地、宝暦一〇年(一七六〇)幕府領,明和元年(一七六四)幕府領三日月藩預地、寛政七年(一七九五)幕府領、文政七年(一八二四)幕府領上野館林藩預地、天保元年(一八三〇)幕府領となり幕末に至る(「門蔵袖日記」一坪家文書、「御領分替代々」尾崎家文書、各年の「成箇帳」千草区有文書など)


鷹巣村
たかなすむら

[現在地名]三春町鷹巣たかのす

貝山かいやま村の西、西方にしかた村の北、山田やまだ村の東。西の村境に沿って八島やしま川が南西に流れ、村の中央を江戸への参勤道(県道須賀川―三春線)が通る。永禄四年(一五六一)六月二三日の熊野山新宮年貢帳(仙道田村荘史)では「たかなす」、同一一年七月吉日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)では「高なす」、天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(同文書)では高那須と記され、紀州熊野新宮の式田・年貢は、永禄四年が二町・二貫文、同一一年が二町・二貫八〇〇文、天正一四年が二町・一貫八〇〇文であった。


鷹巣村
たかのすむら

[現在地名]寄居町鷹巣、比企郡小川おがわ町鷹の巣

今市いまいち村の東に位置し、南と東は西古里にしふるさと村。比企丘陵の北西部にあたる。かつては西古里村のうちで、延宝三年(一六七五)幕府代官南条金左衛門が下付した年貢割付状(吉田家文書)に高七六石余とあることから、分村は同年以前とみられる。これは田園簿記載の西古里村のうちの幕府領の高にあたる。また、同村の旗本西山領三石も当村に入り(旧旗下相知行調など)、分村高は七九石余となる。西山家の知行は幕末に至る(旧高旧領取調帳など)。元禄六年(一六九三)幕府による検地では高一三五石余(田方六四石余・畑方七一石余)(「検地帳」吉田家文書)、同一一年幕府領は旗本真田領となる(「差上一札」同文書)


鷹巣村
たかのすむら

[現在地名]中条町鷹ノ巣

胎内たいない川左岸扇状地の微高地にあり、南を本郷ほんごう江末流が西へ流れる。北は赤川あかがわ村、東は江上えがみ村、南は柴橋しばはし村に接する。当村は二〇〇メートルほど北東にあった二本柳にほんやなぎから移ってきたと伝えられる。元亨三年(一三二三)三月二二日の尼道信譲状案(山形大学所蔵中条家文書)に「おく山のしやう中てうのうち、はくろ・たかのす廿ちやう」とみえ、道信から孫くわうとうこせん(羽黒義成)に譲られている。


鷹巣村
たかのすむら

[現在地名]鷹巣町鷹巣

鷹巣盆地の中央部、西流する米代川と南流して盆地西部でこれと交わる綴子つづれこ川に挟まれた所に位置する。地名の巣は「洲」に由来するという。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に「寛文元年御帳に北比内之内鷹巣村と在之候」とみえる。また享保八年の覚書に「当村ハ元来船場下村ニ罷有申候」とあり、米代川沿いの船場がその始まりという。寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳では当高七三〇石二斗余。


鷹巣村
たかのすむら

[現在地名]土佐市鷹ノ巣

家俊いえとし村の南西、市野々いちのの川流域に位置し、「土佐州郡志」は「鷹野巣村」と記し「在家俊村西、東西二町余南北二町、其土赤」とする。戸波へわ郷に属し、天正一七年(一五八九)の戸波郷地検帳に「鷹巣村」として二町九反余が記され、「タカノス土居ノ前」の記載もある。なお同帳所載の船川ふながわ村の名は通称舟川ふながわとして現存。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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