アサは、アマ(亜麻、リネン)、タイマ(大麻)、チョマ(苧麻、一名カラムシ。変種はラミー)、コウマ(黄麻、ジュート)などの総称で、これらの草皮繊維を紡いで織ったものを麻織物という。日本では麻布または布ともいい、フジ、コウゾなどの樹皮繊維からなる織物を含めてさすことがある。もとタイマ、チョマが主要な繊維で、明治以後アマ、コウマが移入され、繊維の種類は豊富となった。
これらの繊維は、準長繊維として比較的長く績(う)みやすいので、原始時代から衣料として使われた。前近代の紡績法は、夏にアサ畑から引き抜き、水に浸してから乾燥して繊維分離をよくし、麻打ちしたのち爪先で細く繊維を裂き、麻尾と麻頭を撚(よ)りつないで連続した状態とし、麻笥(おけ)に垂らし収めた。麻笥の大きさは作業量の目安ともなり、一反の総糸量とも関係していた。最後に平たい円盤に穴をあけ、棒をつけた紡錘(つむ)で撚りをかけ、糸とした。弥生(やよい)期の遺跡から、土、木、骨製の紡錘車が出土し、この時期からの紡績始原を示している。中世には撚りかけを省略することもあったが、近世には木綿に使う糸車を麻紡績にも使い、生産能率を向上させたが、上質糸では撚りをかけず、そのまま織物としたので、光沢に富み柔軟性に富んでいた。製織は弥生時代には原始機(げんしばた)によったが、のち地機が使われ、一部の地域では高機(たかばた)にかわった所もある。
世界的にみても麻織物の出現は、ほかの織物に比べて早く、エジプトでは紀元前5000年ごろの亜麻布の断片がファイユーム遺跡で発見されているし、スイス湖上住居跡は多量の麻織物を出土したことで有名である。日本では、縄文晩期の千葉県菅生(すごう)遺跡からタイマの種子が出土し、繊維植物の存在が推測され、弥生時代になると、チョマの織物片が山口県綾羅木(あやらぎ)遺跡などから出土し、また各地出土の土器底部に布目が痕跡(こんせき)として残っている。古墳時代では古墳出土の金属製品に付着するものがあるが、品質は粗悪なものと良質なものとに分けられ、適当な用途にあてられていたのがわかる。奈良時代になると、絹織物の発達により麻布は庶民の衣料として一般化した。税として調庸(ちょうよう)の麻布が各地から貢納されたが、そのうち東国(関東地方)が特産地で、上総(かずさ)細布、常陸(ひたち)曝布(さらしぬの)などが著名であった。正倉院にはこの時期の調庸布が残されているが、多くはチョマで各種の品質にわたり、彩色、摺文(すりもん)などが施されている。この調庸制が衰退すると、栽培適地で麻布生産が続けられた。
中世では、信濃(しなの)国(長野県)、越後(えちご)国(新潟県)が知られ、越後青苧座(あおざ)、布座(ぬのざ)などの独占業者まで出現した。近世では、三草の一つとして尊重され、宇治晒(うじさらし)、奈良晒、越後上布(じょうふ)、近江(おうみ)高宮布(たかみやふ)、近江蚊帳(かや)など各地に特産品が生まれた。武家の裃(かみしも)は麻が正装であるため、一定の需要が保たれ品質も向上した。とくに越後上布は糸が細く薄地で、しごいて天保銭(てんぽうせん)の穴に通るほど薄地で上質な品までつくられた。雪晒は繊維が損傷せず幾回もさらせるため、現在も続けられ雪国の風物とさえなっている。明治中期以後は木綿に圧倒されて、アサの栽培面積は急激に減少したが、最近では特性をいかした加工処理が考案され、わずかに生産が続けられている。
近代麻紡織は、麻繊維の種類により硬軟があるため、繊維により煮沸、浸漬(しんせき)などの前処理をし、繊維を採線にしたのち、長い繊維については、そのままの長線を用いるライン紡績、または適当な長さに切断し短繊維にしたものを用いるトウ紡績の2系統により紡績される。さらに、繊維を紡績しやすくするため湯浸(とうしん)する潤紡が加えられることがある。製織は力織機(りきしょっき)が一般化したが、繊維の特性に応じた装置が加えられている。
麻織物の組織は平織が多く、綾(あや)、朱子(しゅす)組織はわずかしかみられない。用途からみると、衣料の分野には少なく、むしろ強度、耐水性のあることから資材用として使われた。それに合繊の発達が麻の特性に近いものを生み出し、麻織物利用の減少に拍車をかけた。しかしポリエステルとの混紡、交織により最適の生地を生み、また麻の欠点であるしわになりやすいことを防ぐため、樹脂加工が施され、品質の改良が行われている。染色加工は、麻繊維は染料との親和力が小さいため染色が困難なので、白生地のものがもっとも多く、一部に絣(かすり)などの糸染めがあるが、捺染(なっせん)するものはきわめて少ない。漂白は軽くカルキ(さらし粉)漂白を行うが、繊維が冒されやすいので、天日晒しもいまだに使われている。
生地は、水分の吸収性に富み、発散が早く、さらさらした肌触りが珍重されるので、夏の着尺地(きじゃくじ)に適し、越後上布(小千谷縮(おぢやちぢみ))、薩摩(さつま)上布、能登(のと)上布、八重山(やえやま)上布などが知られている。広幅物ではシャツ地に使用されることが多いが、ほとんどが合繊混紡となり、伝統的な用途にテーブルクロス、ナプキン、ハンカチーフ、洋服芯地(しんじ)などがある。厚地のものは、帆布(はんぷ)類、雨覆い、ホースなどに使われ、そのうち黄麻織物は、品質のうえからおもに包装材料に用いられる。
[角山幸洋]
わが国の衣料の原料として一般庶民の間に広く使われていたのは麻であった。上流社会では絹も使われていたが、絹は、布質からいっても労働をする者の衣料としては使えるものではなかった。木綿がわが国に入ってきた時期については諸説があるが、江戸初期と思われ、それからだんだん各地に普及していくわけであるが、それまでわが国の大部分の人は麻織物を着ていたわけで、とくに木綿の栽培ができない東北地方の寒冷地の人々は、明治期まで麻布を用いていた。したがってこの地方では、イトというのは麻糸のことで、木綿糸はカナといい、麻布をヌノとかノノなどとよぶ。麻衣きればなつかし紀の国の妹背(いもせ)の山に麻まく吾妹(わぎも) (『万葉集』巻7)という歌にもうかがわれるように、麻を畑にまいて家族の着物のためにせっせと働いている妻を、麻衣を着るたびに思い浮かべている夫の歌である。
麻畑はもっぱら主婦の管理にゆだねられ、麻の引き抜き、乾燥、それを蒸すか茹(ゆ)でるかして水にさらし、繊維を取り出すまでの作業はすべて女の手仕事となっていた。さらにこの繊維を細く裂いて糸に績(う)むことは、おおかた夜なべ仕事であった。家の女たちは、主婦からいくばくかの麻が割り当てられ、それを績み、機(はた)にかけられるような糸に仕上げたが、根気のいる退屈な仕事であった。手まり唄(うた)にある「十三で機を織りそめ……」という文句も、事実であったろう。東北地方では呉服屋のことをモメンヤとよんでいたが、この地方ではモメンがいかに貴重品であり、平常着はヌノといわれる麻織物であったということを物語っている。
[丸山久子]
天然の植物繊維である麻を使った織物。麻の種類や幹,茎,葉など採取する部分の相違によって種類,製法もきわめて多く,性能,用途も異なる。おもなものに亜麻(フラックス。織ったものをリネンと呼ぶ),苧麻(ちよま)(ラミー,カラムシともいう),大麻(ヘンプ),黄麻(ジュート,つなそともいう),マニラ麻,サイザル麻などがある。麻類はそれぞれ相違はあるが,多くは繊維細胞が集まって繊維束を形づくっており,繊維束の繊維素以外に表皮や,木質部,ゴム質,ペクチン質などを含有しているので,より細かく分繊して糸にし織物にするのが良く,ロープ,紐類などは繊維束をそのまま撚り合わせて使用する。総じて摩擦抵抗力があり引張力が強い。吸湿,発散性に富み,熱伝導性が高い。靱皮繊維独特の光沢があるが柔軟さに欠け,しわになりやすく比重も大きい。
麻織物は自然な色調と白く透ける白度から,他の繊維と異なる清潔感と質実さを持ち親しまれている。亜麻織物(リネン)は麻類の中では一番良質で柔らかく衣料に向く。亜麻が日本に渡来したのは江戸時代初~中期と伝えられるが,薬草としてであった。明治初めに製織材料として輸入されたが,成功せず,生産されるようになったのは1887年,北海道や栃木県鹿沼に製麻会社ができてからである。水に強く張りがあり,毛羽立たないので,ナプキン,ふきん,タオルに,そのほか,服地,ハンカチ,シーツ,ケースメント,帆布,キャンバス地,芯地などに使われ,とくに吸湿性やつめたい肌ざわりなどから夏の衣料として欠かせない。リネンは汚れが繊維の内部に侵入しにくく表面のみに付着するため落としやすく,洗うたびに白さを増す。これはリネンの持つペクチン質が洗濯するにしたがって落ちて繊維が分繊するからである。また,近年防しわ加工が進み,衣料分野で広く活用されている。栽培はベルギー,旧ソ連,イギリス,フランスなどに多く,アイリッシュリネンは有名。苧麻もほぼリネンと同じに使われる。ただ伸度に乏しく硬直で柔軟性に欠けシャリ感が強い。フィリピン,中国,ブラジルなどに多く産し,輸入して製品化する。黄麻は日光,水分,摩擦にもろく吸湿性が大きく粗布用である。壁張地,南京袋,縄紐類などに用い,衣料には向かない。インド,中国が主産地。大麻は,狭義にアサといえばこの大麻を指す。強靱で耐水性に優れているので漁網,ロープ,畳表の経やへり,下駄の鼻緒の芯などに向き,衣料用には現在は使われない。中国,イタリア,日本,フランス,旧ソ連などに産する。マニラ麻は黄麻や大麻より軽く,耐水性に優れているが,屈曲性と伸度に欠ける。おもにロープ,ブラシ,壁張地に使われ,フィリピン産が多い。
人類は新石器時代に入って初めて織物を作ったといわれ,原料は麻であった。前5000年代のものと推定されるエジプトのファイユーム遺跡から麻布と亜麻の種子が発見されているし,前3000年ころのものとされるバダーリ遺跡出土のものにはかなり緻密な亜麻布があり,また,ゲルゼ出土品の中には苧麻も含まれている。王墓の壁画に亜麻の栽培や紡ぎ,織りの場面が描かれており,エジプトが主産地であった。前2500年ころとされるスイスや北イタリアの杭上住居址からも亜麻は出土している。当時,すでに原料を栽培して織物を作っていたことがうかがえる。白いリネンは清浄さのシンボルであり,古代ギリシア,ローマ,中世を通じて聖職者たちに用いられた。エジプトからローマ時代へと引き継がれたが,ローマ人はゴール人に接した時代に進んだ亜麻の栽培を知った。ドナウ川流域やスイスに広まり,その技術はイギリスに伝えられた。11世紀から12世紀にかけ産業化が進み,14世紀ごろからは全ヨーロッパに麻織物の技術は広がり,紡績,製織の基礎が固まったのは17世紀ごろでその主流は亜麻であった。
中国では殷墟の出土品でもわかるように,そのころには絹とともに麻,葛の繊維の織物が作られている。目の粗いものを綌(げき),細かいものを絺(ち)と呼び,糸の密度の多寡によって価値が決められていた。
執筆者:宮坂 博文
日本ではもっとも古くから庶民衣料の原料として使われてきた。《魏志倭人伝》中にも倭の産物として記され,古代の令制下では多くの国々から調庸物として貢納され,《延喜式》では全国的に年料別貢雑物,交易雑物として課されていたことが記されている。中世荘園制時代になっても,北陸(越前国牛原荘,若狭国太良荘),東山(信濃国伴野荘),九州(肥後国人吉荘,南坂梨郷など)などの多くの荘園において在家役などの名目で課税対象とされていた。荘園制的支配と収取が衰退するにつれて,麻は栽培に適した北陸・東山地方の特産物として注目をあびるようになった。近世には木綿が衣料の中心となるにつれて麻布の重要性は薄れたが,依然〈三草〉(藍,麻,紅花または木綿)のひとつとして重要商品作物の地位を保ち,綱苧,畳苧,筆結苧などとして需要がふえた。また夏季衣料としても越後上布,奈良晒,高宮細布は著名であり,近江八幡の蚊帳も全国的に有名である。
執筆者:佐々木 銀彌
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