三遊亭円生(読み)サンユウテイエンショウ

デジタル大辞泉 「三遊亭円生」の意味・読み・例文・類語

さんゆうてい‐えんしょう〔サンイウテイヱンシヤウ〕【三遊亭円生】

落語家
初世)[1768~1838]江戸後期の落語家。江戸の人。通称、橘屋松五郎。烏亭焉馬うていえんばに師事。三遊派の祖で、芝居ばなし創始者
(6世)[1900~1979]大阪の生まれ。本名、山崎松尾。多彩な芸と都会的な語り口で人気を得る。昭和40年(1965)から昭和47年(1972)まで落語協会会長。昭和53年(1978)、落語協会を脱退し、落語三遊協会を設立。得意の演目は「子別れ」「品川心中」など。

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精選版 日本国語大辞典 「三遊亭円生」の意味・読み・例文・類語

さんゆうてい‐えんしょう【三遊亭円生】

  1. [ 一 ] 初世。落語家。八ツ子、可楽、焉馬らに師事し、独立して三遊亭円生を名乗る。三遊派の祖。芝居噺の創始者。明和五~天保九年(一七六八‐一八三八
  2. [ 二 ] 六世。本名山崎松尾。五歳で子供義太夫・豊竹豆仮名大夫として初高座。九歳で落語に転じ橘家円童を名乗る。小円蔵・円好・円窓・円蔵を経て昭和一六年(一九四一)円生を襲名。郭噺・人情噺にすぐれ、得意は「子別れ」「鰍沢」「怪談牡丹灯籠」など。明治三三~昭和五四年(一九〇〇‐七九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三遊亭円生」の意味・わかりやすい解説

三遊亭円生
さんゆうていえんしょう

落語家。

[関山和夫]

初代

(1768―1838)初め東亭八ッ子(とうていやっこ)門で多子(たこ)。初代三笑亭可楽(からく)に従って東生亭世楽(とうしょうていせらく)。独立して山遊亭猿松(えんしょう)。烏亭焉馬(うていえんば)門となり立川焉笑(たてかわえんしょう)。再度独立して三遊亭円生。「身振り声色(こわいろ)芝居掛り鳴物入り」の元祖。三遊派の祖。『東都噺者(とうとはなしか)師弟系図』を著す。

[関山和夫]

2代

(1806―62)本名尾形清次郎。初め三升屋(みますや)しげ次。初代円生門に入って竹林亭虎生(こしょう)。三遊亭花生(かしょう)、橘屋(たちばなや)円蔵を経て2代目襲名。四谷(よつや)に住み、木魚頭(もくぎょあたま)のため「よつもく」といわれる。芝居噺を創作。門下から円朝(えんちょう)が出た。

[関山和夫]

3代

(1839―81)本名野本新兵衛。歌舞伎(かぶき)役者から4代桂(かつら)文治門となり桂万治。円朝門に移って円楽。1872年(明治5)3代目襲名。円朝から道具を譲られて「道具入り芝居噺」を演じた。役者時代に「のしん」を名のったので「のしん円生」とよばれた。

[関山和夫]

4代

(1846―1904)本名立岩勝次郎。円朝門下。鯉朝、小円太、3代円喬(えんきょう)を経て1886年(明治19)4代目襲名。人情噺、廓噺(くるわばなし)に優れ、三遊派を統率。

[関山和夫]

5代

(1884―1940)本名村田源治。4代橘家円蔵門下。二三蔵(ふみぞう)、小円蔵、円窓、5代円蔵を経て1925年(大正14)5代目襲名。「でぶの円生」といわれる。1915年(大正4)にアメリカ各地を巡業して話題になる。豪放のなかにも細緻(さいち)な芸を示し、『三十石(さんじっこく)』『首提灯(くびぢょうちん)』『文七元結(ぶんしちもっとい)』『双蝶々(ふたつちょうちょう)』などを得意とした。

[関山和夫]

6代

(1900―79)本名山崎松尾。5代目の養子。6歳で子供義太夫(ぎだゆう)・豊竹(とよたけ)豆仮名太夫。10歳で落語に転じ4代円蔵門下。円童、小円蔵、円好、円窓、6代円蔵を経て1941年(昭和16)6代目襲名。円朝ものの『真景累ヶ淵(かさねがふち)』『怪談牡丹灯籠(ぼたんどうろう)』『怪談乳房榎(ちぶさえのき)』をはじめ廓噺、音曲噺、芝居噺など広い芸域を誇り、『円生全集』『円生百席』(レコード)など多くの著作・資料を残す。78年6月に真打(しんうち)乱造に反対して落語三遊協会を結成、活躍中に急逝。

[関山和夫]

『『圓生全集』5巻・別巻3・追悼編(1967~80・青蛙房)』『『圓生古典落語』全5巻(集英社文庫)』『三遊亭円生著『寄席育ち』(1965・青蛙房)』

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「三遊亭円生」の解説

三遊亭 円生(6代目)
サンユウテイ エンショウ


職業
落語家

本名
山崎 松尾

別名
前名=橘家 円童,橘家 小円蔵,橘家 円好,橘家 円窓,橘家 円蔵(6代目)

生年月日
明治33年 9月3日

出生地
大阪府 大阪市西区花園町

経歴
幼い頃に父と別れ、義母に連れられて上京。4代目橘家円蔵一門となり、5歳の時に子供義太夫・豊竹豆仮名太夫の名で寄席に出演。9歳で噺家に転向して橘家円童と名乗る。この前後に義母がのちの5代目三遊亭円生と再婚。小円蔵を経て、大正9年円好で真打ちに昇進。11年円窓、15年6代目円蔵となり、義父の死後の昭和16年、6代目三遊亭円生を襲名。20年5代目古今亭志ん生と満州に慰問興業に赴いて同地で敗戦を迎え、22年帰国。34年以降芸術祭賞を初め数々の賞を受賞。48年には落語家として初めて天皇・皇后両陛下に招かれ「御神酒徳利」を御前口演した。この間、40〜47年落語協会会長を務めたが、53年後任の会長である5代目柳家小さんらの大量真打ちや昇進試験という方針に反対して、一門を率いて落語協会を脱退、落語三遊協会を設立したが、54年急逝した。男の艶をただよわせる芸風で、5代目志ん生、8代目桂文楽と並んで“昭和の名人”と称され、「牡丹灯籠」「子別れ」「三十石」などを十八番に、人情噺、音曲噺、芝居噺など200を超える演目を持つ落語界随一の芸域の広さを誇った。その多彩な演目はレコード「円生百席」、速記「円生全集」などに残されている。他に自伝「寄席育ち」などがある。

受賞
芸術祭文部大臣賞〔昭和35年〕「首提灯」

没年月日
昭和54年 9月3日 (1979年)

家族
養父=三遊亭 円生(5代目)

伝記
寄席爆笑王ガーコン落語一代噺家ライバル物語忘れえぬ落語家たち私の出会った落語家たち―昭和名人奇人伝円生の録音室談志絶倒 昭和落語家伝志ん生的、文楽的寄席はるあき笑わせる側の人生円生と志ん生わが愛しの芸人たち諏訪正人の「余録」円生の録音室隠居の重し―はるかなる円生への旅落語家の居場所―わが愛する芸人たち落語名人伝芝居と寄席とえぴたふ 六代目円生みんな芸の虫円生 好色ばなし昨日(きのう)のツヅキです落語長屋の知恵 川柳 川柳 著大友 浩 著興津 要 著宇野 信夫 著京須 偕充 著立川 談志 著,田島 謹之助 写真平岡 正明 著安藤 鶴夫 文,金子 桂三 写真矢野 誠一 著井上 ひさし 著吉川 潮 著諏訪 正人 著京須 偕充 著三遊亭 鳳楽 著矢野 誠一 著関山 和夫 著京須 偕充 著山本 進 著京須 偕充 著三遊亭 円生 著都筑 道夫 著矢野 誠一 著(発行元 河出書房新社ソフトバンククリエイティブ河出書房新社河出書房新社筑摩書房大和書房講談社河出書房新社青蛙房集英社河出書房新社毎日新聞社中央公論新社かや書房日本経済新聞社白水社青蛙房平凡社青蛙房朝日新聞社新潮社青蛙房 ’09’08’08’07’07’07’06’06’05’05’03’03’99’98’97’92’91’90’89’88’87’86発行)


三遊亭 円生(5代目)
サンユウテイ エンショウ


職業
落語家

本名
村田 源治

別名
前名=橘家 小円蔵,橘家 円窓,橘家 円蔵(5代目)(タチバナ エンゾウ)

生年月日
明治17年

出生地
東京・芝神明

経歴
4代目橘家円蔵に師事、小円蔵、円窓と名乗って真打となり、大正4年落語家として初めて渡米、巡演した。11年5代目円蔵、14年5代目円生を襲名した。巨体でデブの円生といわれ得意は「夢金」「首提灯」「花見の仇討」、3代目小さんの話風に似せて「らくだ」「しめこみ」を好演、人情ばなし「文七元結」、上方ばなし「三十石」は特に得意だった。

没年月日
昭和15年 1月23日 (1940年)

伝記
芸人論〈1〉鬼籍の名人昨日(きのう)のツヅキです 立川 談志 著都筑 道夫 著(発行元 講談社新潮社 ’02’87発行)


三遊亭 円生(3代目)
サンユウテイ エンショウ


職業
落語家

本名
嶋岡 新兵衛

旧名・旧姓
野本

別名
初名=のしん,前名=桂 万治,三遊亭 円楽(初代)

生年月日
天保10年

経歴
初め歌舞伎俳優でのしんと名乗った。のち噺家に転じて、安政の末頃4代目桂文治の門人となり万治と名乗る。維新前後、初代三遊亭円朝に入門して三遊亭円楽(初代)となった。円朝門下で頭角を表し、明治5年両国の寄席・立花家の開席に際して、3代目円生を襲名。師匠から芝居噺の道具一切を譲られ演じたとされる。初代円馬、2代目円橘、3代目円喬(のち4代目円生)と並んで円朝門の四天王といわれたが、神経症にかかって43歳で夭折した。

没年月日
明治14年 8月14日 (1881年)


三遊亭 円生(4代目)
サンユウテイ エンショウ


職業
落語家

本名
立岩 勝治郎

別名
前名=橘家 円喬(3代目)(タチバナヤ エンキョウ)

生年月日
弘化3年 8月

経歴
三遊亭円朝門下となり、鯉朝、小円太、円喬(3代目)を名乗って明治15年頃4代目円生を襲名。「首ったけ」「三助の遊び」「鰍沢」などの人情噺、くるわ噺、滑稽ものを得意とした。

没年月日
明治37年 1月27日 (1904年)

伝記
昨日(きのう)のツヅキです 都筑 道夫 著(発行元 新潮社 ’87発行)

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改訂新版 世界大百科事典 「三遊亭円生」の意味・わかりやすい解説

三遊亭円生 (さんゆうていえんしょう)

落語家。(1)初代(1768-1838・明和5-天保9) 初め身振り声色(こわいろ)の名手,東亭(とうてい)八ッ子に師事し,多子(たこ)と名のった。のち烏亭焉馬(うていえんば)(立川(たてかわ)焉馬)門に転じて立川焉笑,ついで山遊亭猿松と称して自立,1797年(寛政9)三遊亭円生と改めた。みずから〈身振り声色芝居掛り鳴り物入り〉元祖と名のり,人気を博した。三遊派の祖として三遊亭円遊ほか多くの門人を養成した。《東都噺者(はなしか)師弟系図》の著がある。(2)2代(1808-62・文化5-文久2) 本名尾形清次郎。芸は師風を固守して新味に乏しかったが,三遊亭円朝の師匠として知られる。(3)3代(1839-81・天保10-明治14) 本名野本新兵衛。歌舞伎役者から初代円朝の門に入り,1872年円朝が扇子一本,手拭い一筋の素噺(すばなし)に転じた際,芝居噺の道具を譲られて3代円生を襲名した。芝居噺の名手として知られる。(4)4代(1846-1904・弘化3-明治37) 本名立岩勝次郎。初代円朝門下。3代円喬を経て4代円生を襲名した。色気ある巧技の持主で,初代円朝没後の三遊派を統率した。(5)5代(1884-1940・明治17-昭和15) 本名村田源治。4代橘家(たちばなや)円蔵門下。三遊亭円窓を称していたとき真打に昇進し,1915年に落語家として初めてアメリカに渡った。5代円蔵を経て5代円生を襲名,豪放ながら細緻な芸の名手で,《三十石》《二番煎(せん)じ》《文七元結(もつとい)》などを得意とした。(6)6代(1900-79・明治33-昭和54) 本名山崎松尾。5代円生の養子。6歳のとき,豊竹豆仮名太夫の名で義太夫の高座に上ったが,のち4代橘家円蔵門下に入り,6代円蔵を経て6代円生を襲名した。細緻な芸と噺数の多さで名高く,第2次世界大戦後の落語界を代表する一人であった。著書に自伝《寄席育ち》と《円生全集》12巻がある。
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20世紀日本人名事典 「三遊亭円生」の解説

三遊亭 円生(6代目)
サンユウテイ エンショウ

大正・昭和期の落語家



生年
明治33(1900)年9月3日(戸籍:明治34年5月13日)

没年
昭和54(1979)年9月3日

出生地
大阪府大阪市西区花園町

本名
山崎 松尾

別名
前名=橘家 円童,橘家 小円蔵,橘家 円好,橘家 円窓,橘家 円蔵(6代目)

主な受賞名〔年〕
芸術祭文部大臣賞〔昭和35年〕「首提灯」

経歴
幼い頃に父と別れ、義母に連れられて上京。4代目橘家円蔵一門となり、5歳の時に子供義太夫・豊竹豆仮名大夫の名で寄席に出演。9歳で噺家に転向して橘家円童と名のる。この前後に義母がのちの5代目三遊亭円生と再婚。小円蔵を経て、大正9年円好で真打ちに昇進。11年円窓、15年6代目円蔵となり、義父の死後の昭和16年6代目三遊亭円生を襲名。20年5代目古今亭志ん生と満州に慰問興業に赴いて同地で敗戦を迎え、22年帰国。34年以降芸術祭賞を初め数々の賞を受賞。48年には落語家として初めて天皇・皇后両陛下に招かれ「御神酒徳利」を御前口演した。この間、40〜47年落語協会会長。53年真打ち濫造に反対して一門を率いて落語協会を脱退、落語三遊協会を設立。「牡丹灯籠」「子別れ」「三十石」などを十八番に人情咄、音曲咄、芝居咄など200を超える演目を持つ落語界随一の芸域の広さを誇った。その多彩な演目はレコード「円生百席」、速記「円生全集」などに残されている。他に自伝「寄席育ち」などがある。男の艶をただよわせる芸風で5代目志ん生、8代目桂文楽と並んで“昭和の名人”と称された。平成15年遺族の元から独演会や稽古などの録音テープが大量に発見され、話題となる。


三遊亭 円生(5代目)
サンユウテイ エンショウ

明治〜昭和期の落語家



生年
明治17(1884)年

没年
昭和15(1940)年1月23日

出生地
東京・芝神明

本名
村田 源治

別名
前名=橘家 小円蔵,橘家 円窓,橘家 円蔵(5代目)(タチバナ エンゾウ)

経歴
4代目橘家円蔵に師事、小円蔵、円窓と名乗って真打となり、大正4年落語家として初めて渡米、巡演した。11年5代目円蔵、14年5代目円生を襲名した。巨体でデブの円生といわれ得意は「夢金」「首提燈」「花見の仇討」、3代目小さんの話風に似せて「らくだ」「しめこみ」を好演、人情ばなし「文七元結」、上方ばなし「三十石」は特に得意だった。

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百科事典マイペディア 「三遊亭円生」の意味・わかりやすい解説

三遊亭円生【さんゆうていえんしょう】

落語家。江戸末期の初代〔1768-1838〕は鳴物入り芝居噺(ばなし)を創始。いわゆる三遊派の祖とされる。5代〔1884-1940〕は本名村田源治。豪放な語り口の名手で,《夢金》《三十石》などを得意とした。6代〔1900-1979〕は本名山崎松尾。5代の養子。初め義太夫節の少年太夫として高座にのぼり,10歳で落語の道に入る。特に人情噺にすぐれており,第2次世界大戦後の落語界を代表する一人。
→関連項目烏亭焉馬三遊亭円朝三遊亭円楽

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三遊亭円生」の解説

三遊亭円生(初代) さんゆうてい-えんしょう

1768-1838 江戸時代後期の落語家。
明和5年生まれ。寛政9年ごろ山遊亭猿松(えんしょう)を名のる。初代烏亭焉馬(うてい-えんば)に入門,立川(たてかわ)焉笑のち三遊亭円生にあらためる。2代円生,初代古今亭志ん生,初代金原亭(きんげんてい)馬生らをそだて,三遊派の祖とされた。天保(てんぽう)9年3月21日死去。71歳。江戸出身。通称は橘屋松五郎。

三遊亭円生(6代) さんゆうてい-えんしょう

1900-1979 大正-昭和時代の落語家。
明治33年9月3日生まれ。5代三遊亭円生の養子。4代橘家円蔵に入門,大正9年円好で真打。6代円蔵をへて,昭和16年6代円生を襲名。演目の広さで知られた。40-47年落語協会会長。53年真打乱造に反対して協会を脱退,落語三遊協会を結成。昭和54年9月3日死去。79歳。大阪出身。本名は山崎松尾。

三遊亭円生(2代) さんゆうてい-えんしょう

1806-1862 江戸時代後期の落語家。
文化3年生まれ。初代三遊亭円生に入門,三升屋(みますや)しげ次,竹林亭虎生,三遊亭花生,初代橘家円蔵をへて,天保(てんぽう)12年ごろ2代円生を襲名。怪談噺(ばなし)などを得意とした。弟子に初代三遊亭円朝がいる。文久2年8月12日死去。57歳。江戸出身。姓は尾形。通称は清次(治)郎,盤蔵。

三遊亭円生(4代) さんゆうてい-えんしょう

1846-1904 幕末-明治時代の落語家。
弘化(こうか)3年8月生まれ。初代三遊亭円朝の門人。鯉朝,2代小円太,3代三遊亭円喬(えんきょう)をへて,明治15年4代をつぐ。円朝の死後,三遊派をひきいた。「三助の遊び」など廓噺(くるわばなし)のほか,人情噺も得意とした。明治37年1月27日死去。59歳。江戸出身。本名は立岩勝次郎。

三遊亭円生(5代) さんゆうてい-えんしょう

1884-1940 明治-昭和時代前期の落語家。
明治17年10月生まれ。4代橘家円蔵に入門。明治45年小円蔵から円窓となり真打。大正4年渡米,各地を巡演。11年5代円蔵,14年5代円生を襲名。「デブの円生」といわれ,豪放な芸で知られた。昭和15年1月23日死去。57歳。千葉県出身。本名は村田源治。

三遊亭円生(3代) さんゆうてい-えんしょう

1839-1881 幕末-明治時代の落語家。
天保(てんぽう)10年生まれ。歌舞伎役者から4代桂文治に入門,万治(まんじ)を名のる。初代三遊亭円朝門下となり,初代三遊亭円楽をへて,明治5年3代円生を襲名。芝居噺(ばなし)を得意とした。明治14年8月16日死去。43歳。本名は野本(のち嶋岡)新兵衛。

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367日誕生日大事典 「三遊亭円生」の解説

三遊亭 円生(6代目) (さんゆうてい えんしょう)

生年月日:1900年9月3日
大正時代;昭和時代の落語家
1979年没

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世界大百科事典(旧版)内の三遊亭円生の言及

【芝居噺】より

…落語の人情噺の途中で鳴物が入り,せりふが芝居風になって声色(こわいろ)が入り,衣装は引抜きになり,背景も見せて,ときには短刀のような小道具も使うなど,演出がすべて芝居風になる。《芝居風呂》《双(ふたつ)蝶々》などがそれであるが,初代三遊亭円生を祖とする。近年では,林家彦六がその芸を伝えた。…

【落語】より

…人情噺の祖朝寝坊夢楽(あさねぼうむらく)(夢羅久),怪談噺の祖初代林屋正蔵,音曲(おんぎよく)噺の祖初代船遊亭扇橋(せんゆうていせんきよう),現在の幻灯のような写絵(うつしえ)を見せた都楽(とらく)(1781‐1852),百面相(ひやくめんそう)のような芸で,いろいろの目かつらをつける〈百眼(ひやくまなこ)〉を見せた三笑亭可上(かじよう)など,多士済々の可楽一門だった。一方,可楽よりもやや先輩として活躍したのは,〈身振り声色(こわいろ)芝居掛り鳴り物入り〉元祖と称した初代三遊亭円生だった。円生門下からは,〈続き物〉の祖初代金原亭馬生(きんげんていばしよう)(?‐1838),人情噺の名手初代古今亭(ここんてい)志ん生,おなじく人情噺をよくした2代円生などが輩出した。…

※「三遊亭円生」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」