翻訳|record
円盤上に,線状の音溝を渦巻状にきざみ,音を,溝のたて,よこの変化の程度,という形で記録したもの。対応する英語はほかにも,gramophone record,disk record,phonograph recordなどがある。音を記録し,再生する試みは多くの人々によってなされたが,これらの英語は,当時の考案者が“レコード”に与えた名称のなごりを現代にまでとどめているようである。なお,円盤上の渦巻には,外側から順次内側へ向かう形で音が記録されているが,ディジタル時代のレコードともいわれるコンパクトディスクでは,逆に内側から外側へ向かって音が,ディジタル化された信号として記録されている。
音を記録するには,音波によって生ずる力を振動板を介して針に伝え,その針によって円盤などに音溝をつくる。音波の変化に対応する音溝の変化は,原理的には水平方向,垂直方向のいずれでもよい。現在のレコードでは,いわゆるモノ(モノフォニックの略)の場合では,水平方向の変化という形で,またステレオの場合では45-45方式とよばれる,水平方向,垂直方向の両方向の変化という形で音の記録が行われる(図1)。
なお,現在では,音を能率よく集める--カッター針を駆動する--レコードとして量産するという各段階に,マイクロホン,アンプ,カッター,スタンパーなどの多くの電気的,機械的な機器が導入されているが,基本的な記録の原理は変わらない。
音の再生は,原理的には,音の記録の逆の手順をふめばよい。つまり,針などによって,音溝の軌跡をトレースし,音溝の水平方向,垂直方向の変化を針の動きとしてとり出し,その動きを振動板に伝え,振動板によって音波として空間に放射すればよい。音の記録の場合と同様に,現在では各段階にピックアップ,アンプ,スピーカーなど種々の機器が使われている。
レコードを発明し,初めて実際に装置を作ったのはT.A.エジソンである。もっとも,音を記録するという基本的なアイディアは,年表に示すように,エジソンの発明より20年も前にフランスのスコットL.Scottによって示されていた。また,スコットの方法によって記録された音を再生する方法も,クロスC.Crossによって1877年4月に示された。しかし,これらはいずれもアイディアの段階にとどまり,実際の装置を作るには至らなかったのである。
エジソンのレコードは,円筒に巻きつけたスズ箔に,針によって音溝の垂直方向の変化という形で音を記録し,その円筒の音溝を針でトレースし,その動きを振動板に伝えて音を再生するというものであった。スズ箔の円筒は,その後蠟を塗った蠟管に改良された。一方,円筒形レコードに対して,円盤型のレコードを開発したのはバーリナーEmile Berliner(1851-1929)で1887年のことである。その功績は,レコードを円盤とすることにより,スタンパーという金属製のレコード原盤を用いた大量生産を可能としたことであろう。この方法は現在のレコード製法に活用されている。なお,このころのレコードの材質は硬質ゴムが中心であった。この円盤をターンテーブルによって回転させ音を再生する蓄音機はグラモフォンgramophoneと名づけられた。
しかし,グラモフォンはラッパ型集音器によって集めた音によって直接振動板を振動させ,その動きを直接,記録用の針に伝えてレコード盤に記録していたため,再生の際の音質はよいものとはいえなかった。
これに対して,マイクロホンや真空管増幅器,それにカッターヘッドを用いる,当時としては新しい方法が1924年にアメリカのベル電話研究所によって開発された。当時のマイクロホンは現在の水準からみると,ごく初歩的なものであったが,それにもかかわらずこの電気録音方式によって音質は大幅に改善されたのである。
その後さらに音質を改良するための方法としてプリエンファシスという方法が45年にイギリスのデッカ社によって開発された。プリエンファシスとは〈あらかじめ強調する〉ことを意味する。この方法は,高い周波数の音ほど大きく録音し,再生のときにはまた,もとの音に戻るように電気的に処理するものである。レコードの録音の対象となる音は一般に,低い周波数の成分に比較して高い周波数成分のエネルギーは少ない。そのため,低い周波数の成分は十分な大きさで録音されているときでも,高い周波数の成分は相対的に小さいレベルで録音されてしまい,雑音の影響を受けやすかった。しかし,このようにプリエンファシスおよびディエンファシス(プリエンファシスの逆特性で復元する)を行うことにより,高い周波数の音まで良好に録音・再生することが可能となった。なお,この方法は現在のレコードにも採用され,エンファシスの特性はアメリカ・レコード工業会(RIAA)の定めるRIAA曲線によって示される。
レコード材料の改良も行われ,硬質ゴムから,SPレコード(standard playing record)によく用いられたシェラック,さらに,1948年ころからは,LPレコード(long playing record)に塩化ビニルが用いられるようになった。とくに塩化ビニルが用いられるようになると,レコード針が盤をこするときに生ずるスクラッチ・ノイズが著しく軽減された。レコード盤を回転させるためのターンテーブルも手まわし式からぜんまい式に,さらにモーターを使った電動式へと進み,最近では安定した回転をさせるため,水晶発振器から得られる安定した基準信号にモーターの回転を同期させる方式も多く見られる。
一方,現在ではレコードというとステレオレコードを思い浮かべるほどステレオが一般的になっているが,ステレオ化の動きが出たのは1950年代に入ってからである。2本の音溝を双頭ピックアップでトレースするレコード,1本の音溝を使い垂直,水平の両方向に記録するレコードなどが発表されたが,最終的には45-45方式が標準方式としてRIAAで承認され現在に至っている。また,よりいっそうステレオ効果を増大させるための4チャンネルステレオレコードも70年ころを中心として発売された。方式としては,1本の音溝に四つの独立した音を記録することが可能なディスクリート方式,また,四つの信号をある数式(マトリックス)に従って混合し,2チャンネルステレオレコードと同じように記録するマトリックス方式があった。4チャンネルステレオレコードはスピーカーが4個必要であるなどの原因のためか,2チャンネルステレオレコード(いわゆるふつうのステレオレコード)ほど普及してはいない。しかし,4個のスピーカーによるステレオ効果にはやはり大きな魅力がある。
レコードはこのように種々の考案,提案,試みがなされながら,今日の姿にまで発展してきた。そしてさらに,ディジタル時代の新しいレコードとしてコンパクトディスクなどのディジタルオーディオディスクが登場するに至ったのである。
→ディジタルオーディオ
レコードは図2に示す工程をへて製造される。録音はレコードに記録しようとする音の制作である。音楽ものを例にとると,ミュージシャン(演奏家,歌手)など音を出す側とディレクター,ミクサーなど収音する側のスタッフの息の合った作業により録音が行われる。多くのマイクロホンを立て多チャンネル(たとえば16~24チャンネル)録音機に各マイクロホン出力を収録し,それらをミクシングして,最終的な2チャンネルのテープ(マスターテープという)を作成することが多い。多チャンネル録音機やミクシング卓にはマイクロコンピューターを内蔵するものもあり,多彩な機能を発揮するものが増えてきている。録音機もPCM録音機を用いることが多く,収録された音の品質はいっそう改善されている。なお,レコードが外国から輸入される場合は,このようなテープという形および次に述べるようなプレス用の金型という形の二通りの形で輸入されることが多い。
金型はマスターテープに記録された信号によってカッターを駆動し,アルミ円盤にニトロセルロース系混合物などを薄く塗ったラッカー盤に音を切削記録する。次に,カッティング済みのラッカー盤の表面に,銀鏡処理により薄い銀膜をつくり,さらに電気めっきにより厚くニッケルめっきを行う。その後,ラッカー盤を取り去ると,音溝が凸形となったニッケル盤(メタルマスター)ができる。通常は,このメタルマスターにさらにニッケルめっきを行いニッケル盤(マザー)を作成する。このマザーに,さらにニッケルめっきをして,レコード材料をプレスするためのスタンパー(型)が完成する。なお,メタルマスターをスタンパーとして使うこともあり,これをマスタープレスという。
プレスには圧縮成形方式と射出成形方式の二つの方式がある。圧縮成形方式は,加熱されたレコード材料(塩化ビニルと酢酸ビニルの重合体樹脂)に油圧ピストンなどによりスタンパーを押しつけてレコードを作る方法である。射出成形方式は,レコード材料を抽出機で,表・裏用スタンパーの間に注入して成形する方法である。最後に外周の余分な耳を裁ち落とし,検査,包装を経て商品となる。
再生時のレコードの回転数で分類すると次のようになる。
一般の呼び方はSPである。直径は25cm,30cmで,演奏時間はそれぞれ約3.5分,約4.5分で,ほとんどがいわゆるモノフォニックである。音溝は1cmあたり約30~50本,水平振動式である。使用する針の先端の半径は約0.075mmで,針の材料としては,竹,鋼鉄のものがあり,1枚のレコードを再生するごとに交換していた。また,針先に相当する細い鋼鉄材の周囲に補強用の金属線を巻きつけ,これを1回分ずつほぐして使う特殊な針もあり,1000回針とよばれていた。レコードの材料はシェラックであり,独特のスクラッチノイズがあった。1963年以後は製造されていない。
一般の呼び方はシングル盤(直径17cmのものをさす),もしくはドーナツ盤である。片面に1曲録音されているところからシングル盤,中央がくりぬかれた形状からドーナツ盤とよばれるようになった。直径は17cm,30cmの2種類があるが,17cmのものが多く見られる。演奏時間は,直径17cmのもので約3.5分(約7分としたダブル盤またはEP盤もある),直径30cmのもので約15~20分である。モノもあるが,ステレオのレコードが多い。音溝は,1cmあたり約200本,音溝の幅は約0.05mmである。音の記録は,モノの場合は水平振動式,ステレオの場合は45-45方式が用いられている。レコードの針先はダイヤモンド(またはサファイア)で作られ,先端の半径は約0.013mmである。レコードの材質はビニルである。
一般の呼び方はLPである。直径の長さを名称に含めて,〈30cmLP〉などとよぶことも多い。直径および演奏時間はそれぞれ,17cm(約8分),25cm(約15分),30cm(約25分)である。ステレオ録音のものが多い。レコード針,レコードの材質などは45回転ものと同様である。LPレコード時代の針先がダイヤモンドになり,材質も改良されたとはいえ,針先が音溝を機械的にトレースしている限り摩耗は避けられない。針先交換の目安は,ダイヤモンド針の場合,30cmLPを300~600枚,サファイア針の場合15枚程度といわれているが,針先の摩耗が原因と思われる音質劣化の兆候を感じたら早めに交換するほうがよい。
レコード針の針圧は音質やレコードの寿命に大きく影響する。針圧が大きすぎると,音溝,針の双方の摩耗を早め,軽すぎると針とびや歪の原因となる。針圧は2g程度のものが多い。
なお,レコードが回転したとき,針をレコードの内周の方向に引きよせる力(インサイドフォースという)が生ずるが,レコードプレーヤーの中には,これを打ち消す装置(インサイドフォースキャンセラー)を備えた機種もある。インサイドフォースは針圧の20~40%程度(たとえば針圧が2gのときは0.4~0.8g程度)といわれている。
また,レコード針がトーンアームを中心とした円周上を動くため,レコード針と音溝の相対的な方向関係に生ずる誤差を水平トラッキングエラーといい歪の原因となる。この対策として,カートリッジの方向をアームの方向よりも内側に向けたり(オフセット角という),針先がレコードの中心より遠くを通るようにオーバーハングとよばれる距離をもたせている。リニアトラッキング型レコードプレーヤーでは,レコード針をレコードの半径に沿って移動させることにより水平トラッキングエラーを除去している。
レコードを指定された正しい回転数で聴くこともたいせつである。安定な回転を得るための方式として,50Hzあるいは60Hzの電源周波数を基準とする方式や,水晶を組み込んだ発振回路によって作られる信号を基準とするクォーツロック方式などがある。また,ワウやフラッターとよばれる回転ムラが少ないということもたいせつな条件である。ターンテーブルをドライブする方法として,ターンテーブルの外周に,ゴム製のアイドラーが接してモーターからの回転力を伝えるリムドライブ方式,モーターからの回転力をゴム製あるいはテフロン製のベルトによってターンテーブルに伝えるベルトドライブ方式,モーターによって直接ターンテーブルを回転させるダイレクトドライブ方式などがある。
4チャンネルステレオにはディスクリート方式とマトリックス方式があり,4チャンネルステレオとして楽しむには,4系統分のアンプとスピーカーのほかに,前者には専用の針と復調器(デコーダー)が必要であり,また後者にはマトリックスのデコーダーが必要である。ただし両者とも,従来の2チャンネルステレオ装置を用いて,2チャンネルステレオとして2個のスピーカーで楽しむことも可能である。ディスクリート方式は,1本の音溝に四つの独立した音を記録するもので,可聴帯域よりも高い周波数帯にさらに2チャンネル分に相当する音を記録するものである。この方式では,4個のスピーカーからそれぞれ単独に音を出すことが可能である。マトリックス方式は,四つの信号をエンコードマトリックス(数式)によって二つの信号に変換してレコードに記録するものである。マトリックス方式では,クロストーク(漏話)が生ずるが,これらのクロストークを考慮してレコーディングがなされる。
4個のスピーカーの配置にもいろいろなものが考えられている。前後左右を音に囲まれたような効果を得るには,等距離の四隅にスピーカーを置く正方形配置が適し,クラシックなどには前方半円周上にスピーカーを置く前方配置が適しているといわれる。マトリックス方式のものは正方形配置で聴くものが多い。レコードにスピーカー配置についての指定があるものもある。やや特殊なレコードとしてバイノーラル録音によるレコードの聴き方も知っておきたい。このレコードは,ダミーヘッド(マネキンの頭)の耳の入口,あるいは鼓膜の位置に小さなマイクをセットして録音されたもので,とくに指定がない限りヘッドホンで聴くようになっている。臨場感のある独得の効果を楽しめる。
→オーディオ
執筆者:中林 克己
音楽は演奏のたびごとに消え去る1回的な芸術であるが,レコードはこれを記録し反復再生できるようにした。また音楽は,特定の場で特定の聴衆との交感作用の中で演奏され実体化されるのが本来のいとなみであるが,レコードは録音と再生の過程を導入して演奏の場と聴取の場を分離し,自由に移置できるものとした。さらにレコードは大量複製に適した技術であった。
録音された音楽は時間的にも空間的にもきわめて広い範囲の聴衆をもつことができ,聴衆にとってはきわめて便利な鑑賞の手段と選択の自由が得られた。また反復による学習効果,資料的・文化財的価値も大きい。今日,世界の音楽はレコードやコンパクトディスクを通じて共有の財産となりつつある。しかし一面,録音のための演奏はいきいきとした聴衆との交感や即興性を失い,また作品は特定の演奏と結びついた形で広められ反復されるので,その演奏の規範性がきわめて強くなる。そこで演奏上の技術主義指向が強まり,民衆の自発的な創造性や地方性をうばうことにもなった。レコードによって音楽は生活の中の日常的な存在となった反面,聴衆はもっぱら聴くだけの受身の立場となり,演奏会という共同体験から私的空間の中にとじこもることにもなった。
媒体としてのレコードが絶えず追求してきた課題に,高忠実度(ハイ・フィディリティ。略してハイ・ファイHi-Fi)の問題がある。しかしそれはいわゆる〈原音再生〉と,レコードとしての〈音づくり〉との矛盾する作業の中で行われてきた。録音の技術的欲求は,実際の演奏会の音を超えた細密さにまで達した。とくにポピュラー音楽では,レコードの特性を生かし,録音技術を駆使した新しい音の創造へと向かった。演奏と聞き手の間には,エレクトロニクスと録音プロデューサーおよび技術者が位置を占め,演奏者や編曲者,さらには作曲者の仕事の領分にまでふみこんできている。しかし演奏と場と聴衆との関係は,すでに作曲意図の中に含まれていたものであり,録音再生にあたってもそのことが考慮されるべきである。
レコードは,音楽を大量生産商品とし,音楽家たちをレコード会社を中心とする経済機構の中に組み入れていった。そこでおこったのは一種の規格化と,消耗品化,消費を作り出すための流行現象である。それはポピュラー音楽にとくに顕著であるが,オーディオ技術そのものにも同様の現象がおこっている。またレコードは音楽の需要を飛躍的に高めた代りに,演奏者ひいては作曲者の数は寡占化現象をもたらした。少数の人気音楽家は,レコード売上げと,レコードと演奏会の相乗効果によって,経済収益を高めたが,他の音楽家たちは直接間接に職場を奪われることになった。
以上のような諸問題は,第2次世界大戦後,LP以後の,技術の進展と市場の拡大にともなって大きくなっている。
エジソンの円筒式蓄音機は録音・再生両用で,彼ははじめその効用を主としてことばの記録においていた。蠟管になってJ.C.ホフマン,H.vonビューロー(以上1888),ブラームス(1889)らのピアノ録音が行われた。1890年ころ現れたコイン投入式の商業用の蓄音機が音楽レコード生産のきっかけを与えた。もっとも人気を博したのはスーザのひきいるアメリカ合衆国海兵隊軍楽隊の行進曲であった。初期の円筒式では一時に録音できるのは数本から10本だったので,注文のあるかぎり,演奏者たちは何百回でも繰り返して演奏しなければならなかった。蠟管レコードの録音時間は約2分(のちに4分)であった。
円盤式レコードの本格的な商品化は94年末以降であるが,円盤式は大量生産性と,取扱いや保管の容易さで,円筒式とのはげしい競争に打ち勝っていった。イギリス・グラモフォン社のプロデューサー,ガイズバーグFred Gaisbergが行った1901年のシャリアピンの録音,さらに02年のカルーゾーの録音のそれを上回る成功は,オペラ歌手による声楽録音の全盛時代をもたらした。器楽の録音はピアノやバイオリン独奏の小品が主であった。管弦楽は機械録音のもっとも苦手とする分野で,録音能力と収録時間の制約から,編成も長さも簡略化された。大規模な管弦楽のしかも組物のレコード(H. フィンク指揮,ロンドン・パレス・オーケストラによるチャイコフスキーの《くるみ割り人形》,オデオン盤)は09年に初めて出された。最初の交響曲録音(指揮者不明のオデオン弦楽オーケストラによるベートーベンの《運命》と《田園》,オデオン盤)は13年であった。一方,ヨーロッパではオペレッタ中のヒット曲が,アメリカではダンス音楽が大流行して,ポピュラー音楽の分野が大きく伸び,蓄音機とレコードも大衆化した。
20年代に入ると管弦楽や室内楽の大曲録音の気運が高まったが,25年電気録音の採用によって,録音技術上の制約がとり除かれると,せきを切ったように一流指揮者,一流管弦楽団による録音が展開された。電気録音の採用と,29年に始まった経済恐慌とは,資本の系列化,電気産業資本(RCA,テレフンケンなど)や放送資本の進出をおこした。29年競争にやぶれたエジソンがレコード産業から手を引き,彼だけが細々と生産を続けていた円筒式レコードの歴史も終りを告げた。30年代半ばになってレコード産業が上向きになると,〈ハイ・フィディリティ〉という技術革新を誇示する標語がおこった。この時期のクラシック・レコードにおけるスターは,ストコフスキーでありトスカニーニであった。そして,レコードとの結びつきが,この時期における新即物主義的な演奏様式,すなわち客観性を重んじる表現態度への指向をいっそう強めた(この流れの中にシゲティ,ギーゼキングから第2次大戦後のカラヤンらがある)。
一方,ポピュラー音楽の分野では,いわゆるミリオン・セラーの現象がおこり,このような流行曲を次々と出すことがレコード資本の眼目となった。音楽産業の主導権は楽譜出版からレコードに移った。ビング・クロスビーやフランク・シナトラによるクルーニング(つぶやくような歌い方)の低く甘い歌声が一世をふうびして,ポピュラー・ボーカルのスタイルをリードしたが,これはマイクロフォンを駆使した新しい歌唱技術であり,やがてポピュラー音楽は実演のステージでさえも,拡声装置(PAシステムpublic address systemという)が切り離せなくなった。
LP時代は一方に熱狂的な〈ハイ・ファイ〉追求を作り出すとともに,一方では価格の低廉化によるレコード音楽の大衆化を招来した(とくにシングル盤)。またテープ録音の導入は,何回ものテイク(録音)を継ぎ合わせて編集したり,種々の効果を付加したりする新しいスタジオ技術を可能にした。ステレオも,テープ録音が基礎になっている。ここでは聞き手が歌劇場や演奏会場にいるような臨場感を強調する音場効果が加わった。イギリス・デッカ社のプロデューサー,カルショーJohn Culshawが製作したワーグナーの《ラインの黄金》は,ステレオ最初期のオペラ・レコードであるが(1958),その音の鮮烈さと,ステレオ効果を駆使した劇的表現の達成とは画期的であった。ポピュラー音楽では,マルチトラック録音による合成で,録音・製作者側の音作りがいっそう自由になり,電子楽器の使用も加わって,まったく新しい電気的な音響の支配が始まった。
こうした傾向に対し,いわゆるクラシックの分野では,ワン・ポイント録音を基本とした自然な音場再生,できるだけ音をいじらない自然な音質の再生の利点が再認識されるようになってきている。一方,共同体的な場である演奏会を拒否し,レコードによって聞き手個人個人にはたらきかけようとしたカナダのピアニスト,G.グールドのような演奏家も現れた。
音楽史レコードの制作は1930年代におこったが,50年代に入ってドイツ・グラモフォンのアルヒーフ部門が創設されてから計画的本格的なものとなり,古楽の研究・演奏および一般聴衆の関心をおおいに高めた。また録音による民謡収集は,コダイとバルトークのハンガリー民謡,町田嘉章,武田忠一郎の日本民謡の例のようにSP時代から進められてはいたが,テープ時代になって急速に盛んになり,フォークウェーズを筆頭に,世界各地の民族・民俗音楽の商業レコード化が行われた。歴史性の再現や野外録音に,録音の場を自由に選べるテープ録音はきわめて有効であった。そしてこれら二つの分野が身近になったことは,西欧中心の,しかも古典・ロマン派中心の従来の音楽観を根底からゆり動かした。
日本でも,エジソンの蓄音機の発明は音楽教育家神津専三郎(1852-97)によって〈蘇言機〉または〈自言機〉として同年のうちに報じられたが,翌1878年,東京大学教授J.A.ユーイングによって実験され,福地桜痴はこれを〈蘇音器〉とよんだ。商品としての蓄音機の輸入は89年,国産化は長谷川武次郎商店によって92年に始まっている。当初の蓄音機は見世物として使われ,1890年以来浅草花屋敷の名物となった。内容は歌舞伎俳優のせりふなどであった。
1903年前記のガイズバーグは日本にも録音旅行をし,続いて欧米各社が日本の古典邦楽や軍楽隊の円盤式レコードを録音・発売している。円盤式レコードの国内生産は,07年設立の日米蓄音器株式会社に始まり,日本蓄音器商会(1910設立)にひきつがれて,そのニッポノホン(1915年以降の名称)は大正期のもっとも重要なレーベルであった。吉田奈良丸,桃中軒雲右衛門らの浪花節が人気を集め,長唄その他古典邦楽や唱歌の録音も盛んであった。大衆歌曲では,《カチューシャの唄》(中山晋平作曲,1914)や,《船頭小唄》(同,1921)などがレコード化されて当りをとった。洋楽では藤原義江の活躍が光っている。
昭和期に入るとすぐ,外国資本が電気吹込技術をたずさえて進出,日本ポリドール(ドイツ・グラモフォン系),日本コロムビア(旧日本蓄音器商会。イギリス・コロムビア系),日本ビクター(アメリカ・ビクター系)が1927年以降の3大レーベルとなり,キング(1931設立。ドイツ・テレフンケンと提携)がこれを追った。これによって,これまで輸入に頼っていた洋楽レコードが原盤の供給を受けて国内プレスされるようになり,日本の音楽界の西欧化に強力な影響を及ぼした。その中で,30年近衛秀麿指揮,新交響楽団によるマーラーの《交響曲第4番》(パーロフォン)は,マーラーの交響曲の世界初の全曲録音であった。1927年に《レコード音楽》誌が創刊,この時期からレコード批評もおこった。また資本力を背景に,《東京行進曲》(中山晋平作曲,1929,24万枚)などレコード会社の主導による流行歌作りが始まった。この時期,社会的風潮を反映して,ポピュラー・レコードにもモダニズム指向が強く現れている。また,映画主題歌という形が活用され,興行とも組み合わされて,歌の計画的な売込みがはかられ,歌手が中心となっていく傾向が生じた。大正時代におこった童謡もこの時期にレコード商品化した。
戦後,レコード産業の復興には数年を要したが,朝鮮戦争後の好況から急上昇を始めた。1951年LPレコードの初プレス,53年LPの国内初録音・カッティング,以上欧米よりも4~5年の遅れであったが,ステレオ化(1958)はその年のうちに導入,以後60年代半ばには日本のレコード生産量はアメリカに次いで世界第2位となり,オーディオ・エレクトロニクス技術も飛躍的な進歩をとげた。とくに,70年代からの,4チャンネルステレオ,PCM録音,ディジタルオーディオディスクなどの新技術では世界をリードするに至った。これとともに,レコード産業と弱電産業との結びつきはきわめて強くなり,生産・流通の巨大化も著しくなった。しかしレコード生産量は,一般購買力の低下やカセット・テープとの競合の影響を受けて,76年の1億9975万枚をピークに低落を続けて,82年末からはコンパクトディスクへの転換も始まり,ついにその地位を譲るに至るのである。
第2次大戦後の音楽活動の不自由な時代にあって,レコードはその代りとなる役割をした。1950年代を通じてレコード・コンサートが盛んであったが,やがてはより個人的な需要をみたすようになった。戦後最初のヒット・ソングは1946年の《リンゴの唄》であったが,50年代から売上げ100万枚をこえる歌謡曲レコードが続出した。その中で60年代からのフォーク・ソングは,作る,ひく,うたうという創造的体験への〈参加〉を復権させようとした点で,受容一方におちいったレコード文化へのアンチテーゼを含んでおり,その後のカラオケの流行の中にも,矮小(わいしよう)化されてはいるが同じ欲求が存在している。一方,クラシック・レコードは,日本人の音楽的教養を著しく西欧化し,その水準を高めた。反面,日本の作品や演奏家の占める割合はまだ低いが,その中で,武満徹の作品などを筆頭に,洋楽,邦楽のジャンルや国籍の別をこえた演奏が生まれている。このように西洋音楽の世界化が強まる一方,民族的な様式が再発見されるという時代の傾向は,レコードのうえでも明らかに認められる。
執筆者:大浜 清
聴覚メディアとしてのレコードは,そのあとに登場した同じく聴覚メディアのラジオとの間に,多くの国において一種の競合を生じた。しかし,それもラジオ放送開始の初期だけのことで,そのあとはかなり相互依存的関係が続いた。レコードを作り販売する側からみれば,ラジオは商品情報を音そのものの実物入りで広い範囲の地域に効率よく伝播してくれる手段であり,そのことによって販売が促進される。一方,ラジオ放送をする側にとっては,番組の制作費をそれほどかけずに聴取者を確保できる。若者たちを対象とするディスク・ジョッキー番組などはその典型である。聴取者はすぐには入手できない外国のレコードや新発売の国内のレコードをラジオで聞き,自分の好みに合ったレコードをあらかじめ選び出すことができた。こうした三者関係の間に,近年,テープレコーダー,貸しレコード,コンパクトディスクなどの新しい要素が入り込み,やがてレコードからコンパクトディスクへの転換が本格化するにつれて,ラジオとレコードの関係も複雑なものになっていった。
執筆者:後藤 和彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
音を記録した物体で、吹き込まれた内容は蓄音機またはプレーヤーを用いて再生する。音響科学の進歩とともに形体は変化し、当初の円筒式は円盤にかわった。そしてSPレコード、LPレコードを経て、CD(コンパクトディスク)の時代を迎えている。
[倉田喜弘]
フランス人シャルル・クロスCharles Cros(1842―1888)は1877年4月30日、録音と再生の方法を論文にしてフランス科学協会へ提出した。一方、アメリカのエジソンは同年8月、円筒(シリンダー)に錫箔(すずはく)を巻いたフォノグラフPhonographを製作した。これがレコードの最初だといわれている。日本では翌1878年(明治11)11月、在日イギリス人ジェームズ・A・ユーイングが組み立てて東京大学で実験、さらに1879年3月28日、東京商法会議所で公開した。このときフォノグラフは、蘇言(そげん)機、蘇音機などと訳された。1885年アメリカのA・G・ベルは錫箔のかわりに蝋(ろう)を塗ったグラフォフォンGraphophoneを開発した。これには1889年1月20日の鹿鳴館(ろくめいかん)における日本初公開の際、蓄音機、撮音機といった名称が付されている。
国産第1号は1891年3月、愛知県岡崎に住む中條勇次郎(ちゅうじょうゆうじろう)(1858―1899)が製作。その1年後には、東京の尾花千市(おばなせんいち)も開発に成功している。俗に「蝋管レコード」とよばれるこの機種には、日本人の演説、声色、はやり歌などが吹き込まれ、「一人でものをいう機械」と驚嘆された。同時に蝋管は、音響科学の知識を日本人に与え、また東京の文化を地方へ広めるうえで大きな役割を演じた。各地の祭礼や縁日に蓄音機屋が現れるのは1890年代の末であるが、その周囲には庶民が群がり、ゴム管を耳に当てて、機械の発する音を楽しんだ。
[倉田喜弘]
後述のLP(long playing)が出現して以来、standard playingまたはshort playingと区別してよばれるようになったもので、1分間に約78回転する。1888年エミール・ベルリナーEmile Berliner(1851―1929)は円形のシェラック(セラック)盤に吹き込んだ音を公開した。これをグラモフォンGramophone(アメリカ・ビクターの母体)という。日本での初公開は1903年(明治36)5月22日、東京銀座の天賞堂が行った。また天賞堂は、270種に及ぶ日本の芸能をアメリカ人技師に録音させ(1903年春)、アメリカでプレスしたのち、11月8日から「平円盤(へいえんばん)」と名づけて発売した。しかし平円盤の名称は、1908年4月から「レコード」と併用され、同年8月以降は完全に消え去ってしまう。天賞堂がレコードと命名した背景は知る由もないが、当時のイギリス、フランスではディスクといい、アメリカではフォノレコードphonorecordとよばれていたから、日本名のレコードは多分にアメリカ英語の影響といえよう。日本国内のメーカーとしては、日米蓄音器株式会社(のち日本蓄音器商会に吸収合併)が1909年5月に「音譜」を発売したのが最初である。したがってレコードは天賞堂の商品名であり、音譜は日本蓄音器商会の商品名といえるが、1913年(大正2)以降は漸次レコードが社会の共通語として通用し始めた。
初期のレコードは片面盤であるが、天賞堂がアメリカ・コロムビアから両面盤を輸入した1910年(明治43)以降、レコードはすべて両面盤に切り替わる。そして1910年代には、桃中軒雲右衛門(くもえもん)、吉田奈良丸、天中軒雲月らの浪花節(なにわぶし)が大きな話題となった。日本国内のメーカーも数社を数えるが、京都の東洋蓄音器が発売した松井須磨子(すまこ)の『カチューシャの唄(うた)』や、尾崎行雄(ゆきお)の演説、それに日本蓄音器商会の大隈重信(おおくましげのぶ)の演説などによって、レコードはメディアとしての偉力を発揮した。また東京蓄音器のように、児童文化の向上を目ざして「お伽(とぎ)歌劇」の製作に努めるメーカーも現れた。
1920年(大正9)にレコード著作権が確立したころは、第一次世界大戦後の好況とも相まって、日本のレコード産業は超繁忙にみまわれ、はやり歌の『枯れすすき』『籠(かご)の鳥』、あるいは2世市川左団次の『鳥辺山(とりべやま)』などは、何十万枚という売れ行きをみせた。同時に、洋楽レコードの愛好者も増えてくる。片面3分(10インチ盤)ないし4分半(12インチ盤)のレコードは、1925年の暮れ、ウォルドの長時間レコードによって20分に延びた。大阪の日東蓄音器も長時間盤を完成する。同じ年の4月、アメリカ・ビクターは電気吹込みの製品を発売した。それまでのレコード(旧吹込みという)とは違って周波数帯域は広がり、音質は格段に向上した。ドイツ原盤の電気吹込みの日本プレスはポリドールが最初で、1927年(昭和2)4月の発売。また日本人歌手の電気吹込み第1号は藤原義江(よしえ)(『出船の港』『出船』)で、1928年2月に日本ビクターが発売した。ここにヒット曲やスター誕生の道が開け、レコード産業は確固たる地歩を築き上げることになる。流行歌や浪花節はもとより、映画説明、演説、語学など、あらゆる音素材がレコードになった。戦争の推移につれて軍歌や国民歌謡ももてはやされ、『愛国行進曲』のように100万枚以上を記録するヒットも生まれたのである。1分間におよそ78回転するレコードは、日本人の胸中にさまざまな感慨を刻みつけたが、次なる新技術の前に屈して、1963年(昭和38)にはその使命をすっかり終えた。
なお、レコード針は音溝(おとみぞ)をトレースし、そこに刻まれた信号を電気的振動に変える役目をするもので、SP時代には鋼鉄針や竹針が用いられた。しかし、レコードの片面ごとに取り替える不便さが付きまとい、これは1950年代に10回の使用に耐える鋼鉄針の出現によって多少解決される。これを大幅に改善したのがサファイアを取り付けたピックアップの出現で、20時間以上使用できるようになった。そして、ステレオ再生装置時代にはダイヤモンドの小片を用いた永久針となるが、磨滅や破損にはたえず注意しなければならなかった。
[倉田喜弘]
1948年6月、アメリカ・コロムビアは、ビニル盤に30分近い内容を盛った長時間レコード(1分間に33と3分の1回転)を発売した。外貨事情の極度に悪かった時代だけに、日本コロムビアがこのLPを輸入したのは1951年4月であり、また国産品は1953年8月から発売される。1分間45回転のシングルレコード(ドーナツ盤)やVG(variable grade)盤も登場し、ここに新たな音響の世界が開けることになる。すなわち、録音技術の可能性が次から次へとみいだされ、音の高忠実度ハイファイが追求されることになる。テープとテープレコーダーの出現も、レコード吹込みに大変革をもたらした(洋楽の録音テープは1956年に初輸入、国産品は1966年から発売)。周波数特性も一段と向上したLPは、必然的にステレオの道をたどる。そして1958年8月、日本ビクターがステレオ・レコードの発売を開始したころは、日本の音響技術は世界のトップ水準にまで達し、1970年には4チャンネル・レコードへ、さらに1975年にはPCM(パルス符号変調)録音方式へと歩を進めた。
このLP時代には、日本のレコード産業も音楽への傾斜を強めてミリオン・セラーを続出させ、1976年の『およげ!たいやきくん』のように、その年だけで443万枚の売上げを記録するレコードも現れた。国民生活にとってレコードは不可欠の存在となっていた証拠になろう。また日本のメーカー三十数社は200社以上の外国メーカーと契約し、輸入盤によって世界の音楽状況を伝達した。おもな自由主義諸国においてLPの生産が史上最高を記録したのは1978年である。その後は漸減傾向をたどり、1986年には最盛時の5~6割程度となった。すなわち、アメリカの出荷枚数1億2520万を筆頭に、以下、売上数量では西ドイツ6150万枚、イギリス5230万枚、フランス2680万枚となった。日本の場合は、17センチメートルのシングル盤を除く25~30センチメートル盤のLP生産枚数をみると、1978年の9314万枚が1985年には6238万枚、1986年には4548万枚、そして1987年には2775万枚へと著しく落ち込みを示した。1980年以降に広がった「貸しレコード」も大きな原因だが、「夢のオーディオ」といわれたCDの登場がLPの凋落(ちょうらく)に拍車をかけたのである。
1993年(平成5)には25~30センチメートル盤のLPの生産枚数が77万枚にまで減少、2011年(平成23)では17センチメートルのシングル盤も含めて、わずか21万枚にすぎない。
[倉田喜弘]
コンパクトディスクcompact discの略で、オランダのフィリップス社と日本のソニーが開発したDAD(digital audio disc)の一種。従来のレコードが溝から音を取り出すアナログ方式であったのに対し、音の波形を「0」「1」のデジタル信号に変換して直径12センチメートルの金属盤に記録し、レーザー光線によって音を再生する仕組みである。1982年(昭和57)10月、世界に先駆けて、日本のメーカーはCDプレーヤーと同時に発売した。収録時間が60~75分という長時間であるため、当初は中高年のクラシック愛好者やサウンド・マニアが主たる購買者となり、いきおいCDはクラシック向きの商品とみなされもした。しかし16~25万円と高価格であったプレーヤーの低価格化が進み、1985年には4万円台の商品も現れて普及率は10%に達した。この価格の低下と並行してCDも爆発的な売れ行きを示し、1986年には生産額でLPを200億円以上も上回り、また生産枚数もCD4512万枚、LP4548万枚となり、CDは音楽ソフトの王座についた。そして、1987年にCDの生産枚数はLPの2倍以上に当たる約6500万枚を記録する。さらに1988年2月には、従来より一回り小さい8センチメートル幅のCDが現れ、生産枚数は飛躍的に伸びていく。しかし、1990年代以降の生産枚数を記すと、12センチメートルCDは1996年(平成8)が2億8300万枚、2000年(平成12)の3億8100万枚がピークで、以後漸減して2006年は2億8900万枚、2010年には2億0600万枚となっている。8センチメートルCDは1996年が1億6600万枚、2000年が3300万枚であったが、2006年には170万枚、2010年には11万枚に減少している(日本レコード協会調べ)。CDの売上げ減少には、CDレンタルや中古CDの利用、インターネットやモバイルにおける音楽配信の増加も影響しているとみられている。
CDの特色は、音質の飛躍的な向上、小型で場所をとらない、若者のハイテク感を満足させる、傷まないために半永久的な寿命を保つ、などがあげられる。なおCDには音楽ソフトばかりでなく、CDグラフィックやCD-ROMなど多彩な展開がなされている。
[倉田喜弘]
ディスクレコードの規格については、日本工業規格(JIS(ジス))の「ディスクレコード」(JIS S 8601。1981年4月1日制定)で定められ、分類等についてもこのなかで規定されていたが、1994年(平成6)にこの規格は廃止されている。しかし、この分類はその後も使われているので、ここでは、分類のうち主要なLPレコードの一般的な製造工程について説明する。
まず、スタジオで音を磁気テープに収録し、これを編集してレコード用のマスターテープをつくる。次に、このマスターテープの音をもとにして、円盤(ラッカー盤)上に機械的に振動波形を刻む。この操作をカッティングとよび、カッティングされた円盤をラッカーオリジナル(またはラッカーマスター)とよぶ。ラッカーオリジナルから直接レコードをつくることはできないので、この表面に導電処理を行ったうえで、電気めっきにより厚さ0.3ミリメートル程度のニッケル層をつくる。ニッケル層をラッカーオリジナルからはがしたものが、マスターネガティブである。マスターネガティブの表面の凹凸はラッカーオリジナルのそれとは逆になっており、写真に例えればネガに相当する。少数のレコードをつくる場合は、マスターネガティブを使って直接レコードをプレスすることもある。しかし、一般にはマスターネガティブから先と同様の工程でポジティブマザー(ポジ)をつくり、さらにこれからスタンパー(ネガ)をおこし、このスタンパーを使ってレコードの材料をプレスする。レコードの材料には塩化ビニルと酢酸ビニルの共重合体が使われる。
[吉川昭吉郎]
『クルト・リース著、佐藤牧夫訳『レコードの文化史』(1977・音楽之友社)』▽『R・ジュラット著、石坂範一郎訳『レコードの歴史――エディソンからビートルズまで』(1981・音楽之友社)』▽『岡俊雄著『レコードの世界史――SPからCDまで』(1986・音楽之友社)』▽『倉田喜弘著『日本レコード文化史』(1992・東京書籍)』
イギリスの数学者。オックスフォード大学卒業後、1545年ケンブリッジ大学で医学博士号を取得。開業医や造幣局検査官などをしながら数学入門書を著した。『技芸の基礎』(1543)は代数学の初等教科書で、整数の基本操作を述べている。1552年に分数にまで拡張した増補版が出た。『知識の小道』(1551)はユークリッドの『ストイケイア』の部分訳と天文・測量機器の解説、『知識の城』(1556)は球についての理論で、コペルニクス説にも触れながら職人向けの球の製作法を記述している。いずれも英語で書かれており、当時の職人たちの知識水準を引き上げるのに寄与した。
[高山 進]
出典 図書館情報学用語辞典 第4版図書館情報学用語辞典 第5版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
音楽などを録音した円盤。蓄音機・プレーヤーを用いて再生する。1877年,アメリカでエジソンはフォノグラフとよぶ円筒形蝋管(ろうかん)のレコードを開発,御雇外国人ユーイングが79年(明治12)東京商法会議所で公開した。88年にアメリカのベルリナーが円盤形のレコードを発明,大量生産が可能になった。東京銀座の天賞堂は日本の芸能各種を吹きこんで輸入し,1903年11月に平円盤(へいえんばん)の名で発売,08年4月以降はレコードと改称した。1分間に約78回転するこのレコードは,48年にアメリカで33 1/3回転のLP(ロングプレイング)盤が現れてから,SP(スタンダードプレイング)盤とよばれた。LPの日本発売は51年(昭和26)4月のこと。82年10月,音の波形をデジタル信号に変換してレーザー光線で再生するCD(コンパクトディスク)が,世界に先駆けて日本で発売され,レコードは衰微した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 (株)ジェリコ・コンサルティングDBM用語辞典について 情報
出典 ASCII.jpデジタル用語辞典ASCII.jpデジタル用語辞典について 情報
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