東勝寺跡(読み)とうしようじあと

日本歴史地名大系 「東勝寺跡」の解説

東勝寺跡
とうしようじあと

[現在地名]鎌倉市小町三丁目

宝戒ほうかい寺の背後葛西かさいやつにあった臨済宗寺院。山号青竜山。「本朝高僧伝」退耕行勇伝によると「副元帥平泰時建浄妙・東勝二刹、請勇為開山初祖」とあり、行勇は仁治二年(一二四一)東勝寺で没したという。「風土記稿」はこれをひいて行勇を開山、北条泰時を開基とする。一方「扶桑五山記」では開山を西勇禅師とし、「鎌倉志」「攬勝考」は西勇を行勇の法嗣とし、西勇開山説をとり、かつ「攬勝考」では北条時宗を開基とするなど諸説があるが、一般には行勇開山・泰時開基とする。初期の住持には桑田道海・無及徳詮・約翁徳倹・南山士雲などが知られる(本朝高僧伝・鎌倉五山記など)

士雲は徳治二年(一三〇七)住持となり、元亨三年(一三二三)北条貞時十三年忌法要では東勝寺における追善供養の導師となっている(「扶桑禅林僧宝伝」「北条貞時十三年忌供養記」県史二など)

東勝寺跡
とうしようじあと

[現在地名]宇都宮市馬場通り一―四丁目

日野ひの町通の北側一帯にあった宇都宮氏時代の城下二大寺院の一つ。天台宗本尊は朝日観世音と伝える。もとは北は宇都宮大明神に続き、東は大明神境内からしもノ宮に至る丘陵東下のアサリ川に及び、南は日野町、西は馬場ばば町に限られる。弘長二年(一二六二)宇都宮景綱川の東に創建、永仁六年(一二九八)景綱の子貞綱が父の菩提のため荒尾崎あらおざきに移転して寺域を拡大、大御堂釈迦堂・普賢堂・文殊堂など、正和三年(一三一四)千手堂を建立、梵鐘を鋳造、鐘撞堂を建立して奉納したという。文明九年(一四七七)正月一一日の宇都宮正綱の奥書のある日光山並当社縁起絵図(愛媛県宇都宮神社蔵)には、東勝寺大御堂に阿弥陀如来、千手観世音、馬頭観音の記載がある。

東勝寺跡
とうしようじあと

[現在地名]江迎町猪調免

臨済宗寺院の跡。楽音山と号し、本尊は聖観音。応永二五年(一四一八)昌興しようこう(正興寺とも、現廃寺)二世の来遠が開山したと伝える。東勝寺末堂として赤坂あかさかに阿弥陀堂、かじ村・新田之尾につたのおに地蔵堂、志戸氏しとのうじ猪調いのつきに観音堂などがあり、うち猪調の観音堂に安置される聖観音像は応永三五年五月銘を有する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「東勝寺跡」の解説

とうしょうじあと【東勝寺跡】


神奈川県鎌倉市葛西ケ谷にある寺院跡。鶴岡八幡宮境内の南東、滑(なめり)川を渡った葛西ケ谷と呼ばれる谷戸(やと)に立地する。滑川の西岸には最後の北条氏得宗(とくそう)、高時一族の菩提(ぼだい)を弔うために後醍醐(ごだいご)天皇が高時邸跡に建立した宝戒寺がある。1975年(昭和50)と翌年、1996年(平成8)と翌年に、北側と中央の谷を中心に発掘調査が行われた結果、鎌倉石の切り石を積み上げた石垣や切り石を敷いた坂道、岩盤を掘削した溝、門跡と推定される石列、礎石建物1棟、掘立柱建物1棟などの遺構が良好に遺存していることが確認された。北条氏の家紋である三鱗文の瓦が出土したことにより、ここが近世地誌の記載や伝承のとおり、東勝寺跡の重要な一画であることが判明し、1998年(平成10)に国の史跡に指定された。出土遺物には、一般の寺院跡ではみられない中国産の獣足青磁香炉・獣足褐釉香炉・天目(てんもく)茶碗、国産の古瀬戸朽葉文壺などが多数含まれており、流通と対外貿易を掌握していた北条得宗家の氏寺跡ならではの優品として注目されている。JR横須賀線ほか鎌倉駅から徒歩約20分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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