デジタル大辞泉 「便所」の意味・読み・例文・類語
べん‐じょ【便所】
[類語]化粧室・洗面所・手洗い・トイレ・トイレットルーム・ウオータークロゼット・ラバトリー・レストルーム・WC・
大小便をするためにつくられた建物、あるいは建物内の施設。古くは「かわや」といった。また、はばかり、雪隠(せっちん)、後架(こうか)、東司(とうす)、西浄(せいちん)ともいった。現在は、トイレ、お手洗い、化粧室などとよぶことが多い。かわや(厠)は、川屋あるいは側屋と書き、大小便をするための建物を川の上につくって排泄(はいせつ)物を川に流したから、あるいは、家のかたわらまたは家から張り出して大小便をするための建物をつくったことから、その名が生まれたといわれている。
[平井 聖]
歴史的には、平安時代の大内裏(だいだいり)において、内裏の外の北東隅に御樋殿(おひどの)がつくられているのが具体的に記録に現れる早い例であろう。御樋殿とは、便器のことをさす樋筥(ひばこ)を扱う場所のことである。『延喜式(えんぎしき)』にみられる大嘗会(だいじょうえ)には御厠殿があり、悠紀(ゆき)院・主基(すき)院ともに垣で囲まれた地域の中の正殿のある一画の中、悠紀院では南東の隅に、主基院では南西の隅に建っていた。その規模は、ともに長さ1丈、広さ8尺、高さ7尺で、扉のある建物であった。また逆に、厠の持ち運びできる物として、便器を「おかわ」といった例も、平安時代に認められる。
中世の初めに禅宗とともに伝えられた禅宗寺院建築には、中心となる伽藍(がらん)の中に便所の建物も含まれていた。山門から東西に始まる回廊が北に折れるところに便所と浴室が設けられたが、東側に設けられたときには東司、西側に設けられたときには西浄とよばれた。禅宗では便所の作法も修行とされている。戦国時代の遺跡である福井県の朝倉遺跡では、武家屋敷の便所が出土している。おもな建物のそばに独立して設けられた便所は、掘りくぼめられた溜(た)めますの上に建ち、木製の羽子板形の「きんかくし」が使われていた。『洛中(らくちゅう)洛外図』屏風(びょうぶ)に描かれた中世の京の町屋では、周囲を町屋が取り囲む一町四方の区画の中の空き地に独立した便所があり、その区画の人々がこの便所を共用していたと考えられる。
江戸時代に入ると、幕府の本拠である江戸城をはじめとする武家屋敷、内裏をはじめとする公家(くげ)屋敷に図面が伝えられているものがあり、寺院の釈家(しゃっけ)住宅、町屋や農家の遺構がみられるようになる。武家屋敷、公家屋敷、釈家住宅では、主要な建物に付属するように小便所と大便所が組になって建てられた。屋敷内の長屋や局(つぼね)では、それぞれの区画ごとに便所が設けられることはなく、一つの小便所といくつかの大便所をまとめて、近接した位置に独立した小さい建物を構成することが多かった。
近世の町屋では、通り庭が裏庭にまで及んだところに、小便所一つと大便所1ないし2が並んで設けられた。農家では、小便所一つと大便所一つを、母屋から独立した一つの建物として設けるのが普通であった。そのほか、町屋・農家ともに客座敷を設ける場合には、客座敷の裏手に小便所と大便所を設けている。町屋の裏長屋では、一軒一軒に便所を設けることはなく、裏長屋の建つ1区画の内の1か所か2か所に、一つの小便所といくつかの大便所を並べている。この便所を惣後架(そうこうか)とよんでいるが、京・大坂の上まで間口いっぱいに扉のあるのに対して、江戸では扉の高さがしゃがんで隠れる程度しかない。
茶室では、露地に砂雪隠(すなぜっちん)を設けている。
明治以後の都市住宅では、初め座敷の裏手に上(かみ)便所、居室の近くに突き出すように家族のための下(しも)便所を設けていたが、しだいに建物の中に組み込まれるようになった。構造的にはくみ取り便所で、近郊の農家が肥料としてくみ取っていた。大正期ごろから浄化装置がくふうされ、水洗便所が使われ始めるが、本格的に浄化槽付きの水洗便所が奨励されるようになるのは、第二次世界大戦後のことである。また、明治以降、洋風の腰掛け式の便器も使われるようになるが、普及するのは近年である。和風便器を使って、便所のスペースを節約した形式に、列車に設けられた大小便兼用の便所があり、汽車便式とよばれて、昭和に入ると住宅にも取り入れられるようになる。洋風便器も、大小兼用することができることと健康上の利点から、しだいに広まっている。
[平井 聖]
古代ローマで腰掛け式の水洗便所が使われていたことが、ポンペイほかの遺跡で確認されている。中世のヨーロッパの城郭では、城壁の中あるいは城壁から張り出して腰掛け式の便所をつくり、下水とともに排泄物を流すか、城壁の外へ直接排出するようにしていた。
近世になって、たとえばフランスのベルサイユ宮殿では、18世紀の初期から腰掛け式の水洗便所がたびたびつくられていた。しかし、庶民階級はもちろん、宮殿においても一般的には腰掛け式の便器や尿瓶(しびん)が使われていて、朝になると排泄物がしばしば道路のような公共的な場所に捨てられたことが記録や物語からわかる。
近代的な水洗便所は、給排水の設備が都市に完備するようになってからのことで、20世紀にイギリスでとられた特許をはじめとして、さまざまなくふうがみられるようになる。
ヨーロッパでは便器は腰掛け式が一般的であるが、公衆便所その他の公共的な場所では、しゃがむ形式のトルコ式便器も使われている。
中国では、漢代の明器(めいき)にこんとよばれた便所の形式を、すでにみることができる。
[平井 聖]
構造形式によって、流水の浄化作用を利用する厠(かわや)、樋筥(ひばこ)で大便を受ける樋殿(ひどの)形式のもの、排泄物を砂で覆い清め、砂ごと取り除く砂雪隠(すなぜっちん)のような砂便所、糞尿(ふんにょう)を肥料とするため戸外に別室を設けたくみ取り便所、くみ取り便所を改良した改良便所、排泄物を下水処理場で浄化処理する水洗便所などがある。
日本では古くから、しゃがんで用を足す和式が主流であったが、公団住宅が1958年(昭和33)に大阪の団地300戸に初めて腰掛け式の洋風便器を設置して以来、急速に普及し、公団住宅のうち92%が洋式になっている。この影響は一般住宅にも及んでおり、洋式の比率は55%に達するとする調査結果もある。高度成長期の昭和40年代までは、和式、洋式にかかわらず、水洗便所(ウォーター・クロゼットwater closet略してW.C.)は高い文化水準を表す理想のトイレと考えられてきた。その普及とともに、便所は住まいの「不浄」の場、世に「はばかる」場から、居間や寝室と同じ重要さで考えられる場へと変わった。とくに、洋式水洗便所の普及に伴い、座る姿勢が楽になり、臭気もさほど気にならなくなったため、便所のある空間、すなわちトイレに個室としての魅力を感じる人が増えてきている。こうした動きを反映し、書棚や飾り棚を設けたり、障子を入れて床の間風に仕上げたものなど、新しいタイプのトイレも提案されている。
水洗便所は、下水管と汚水処理場をもつ下水道か、屎尿(しにょう)浄化槽を必要とする。便器に落とされた排泄物はそのつど下水に流され、下水を通って汚水処理場に集められ、一括して浄化処理されるか、もしくは、浄化槽に導いて浄化したのち、下水、川、池などに流される。したがって、このような設備のない地域では、水洗便所を設けることを法律で禁じている。
排泄という行為は、個人的な要素の強いものであり、家族はもちろん、来客にとってもいつでも必要性を迫られる。そのため、便所は、寝室などの個人的なスペースと、居間などの社会的なスペースの両方に直接結び付いていることが望ましい。成人の大便に要する広さは、和式で40センチメートル×60センチメートル、洋式で60センチメートル×80センチメートル程度となっているが、一般には手洗いシンク、ペーパーホルダーなども含めて、和式では80センチメートル×100センチメートル、洋式では80センチメートル×120センチメートルというのが、トイレの最小規模とされている。
家庭用の便所では、洋風腰掛け便器が主流で、サイホンボルテックス、サイホンゼット、サイホンなどの洗浄方式は、留水面が広く、臭気が少ないうえ洗浄音も静かだが、洗落し式や洗出し式は価格は安いものの、騒音、留水面の大きさなど性能面で劣る。
下水道や汚水処理施設などの整備が遅れており、浄化槽からの放流も認められていない別荘地などでは、少量の洗浄水ですむ簡易水洗便所が用いられる。また、寒冷地向けに、便器や配管の中の水の凍結を防ぐため、ヒーターによる加熱、水抜方式、流動方式の便器も開発されているが、信頼性、操作性、経済性の面で課題が残っている。
近年、便座にもさまざまなくふうが施されるようになってきている。ヒーターを組み込んだり温風が吹き出す機能を加えたものや、スイッチを押すと温水が噴き出して洗浄するものなどである。しかし、こうした機能の複合化が進む一方で、水洗便所は、下水道・下水処理施設の増設、処理能力や水資源の浪費などの点で不安材料が指摘されている。これにかわるものとして注目を集めているのが、ドライ・クロゼット(D.C.)方式である。排泄物の水分を乾燥装置で取り去り、処理槽内のバクテリアなどの微生物で分解させるというもので、水を使わない便所が台頭する日もそう遠くない。
[中村 仁]
便所に関する注目すべき習俗に便所神の信仰があり、中国にも似たような慣習がある。センチ神、厠(かわや)神、便所神などとよび、便所新設の際には、魔除(よ)けと称して紙製の夫婦一対の人形を甕(かめ)の下に埋めたり、便所の隅に棚を設けて藁(わら)でつくった人形を祀(まつ)る所もあり、御神体など置かず、ただ枡(ます)と線香立てぐらいを置く所もあった。茨城県筑西(ちくせい)市では、6月26日をチヨズバギオンといって、うどんをつくって便所神に供えるが、そのとき、紙で女の人形をつくって供える。便所神は出産と深い関係があって、妊婦がよく便所掃除をしていれば美しい子供が生まれるという俗信は全国的である。宮城県では奉公さんという人形(堤(つつみ)人形)をつくって便所の隅に置くと、いつも便所を清潔にしてくれると信じられていた。関東から甲信越地方にかけては、嬰児(えいじ)が初めて外に出る日、「便所参り」ということをする。お散供(さんぐ)(洗米)を持って便所の神にお参りするのであるが、自家だけでなく近隣の便所を拝んで回る地方もある。
[高野 修]
『李家正文著『住まいと厠』(1983・鹿島出版会)』▽『バーナード・ルドフスキー著、奥野卓司訳『さあ横になって食べよう――忘れられた生活様式』(1985・鹿島出版会)』▽『岡並木著『舗装と下水道の文化』(1985・論創社)』
世界の食文化にさまざまなかたちがあるように,排泄の場所である便所にも同様の差異がある。諸民族間の差はもちろんであるが,同民族内の時代差もあり,かなり多様である。また便所の構造は諸民族間における排泄行為に対する羞恥心とも関連し,未開とか文明とかの尺度で構造の特徴を論じられるものでもない。
大・小便の処理方法は火葬,土葬,水葬,風葬という人類の死体処理の方法と一致すると言われている。たとえば,大便を家の壁などに塗りつけて乾燥させて燃料にする,土を掘って排便後土をかぶせる,海や川の水に流す,また土や砂の上に排便してそのままにしておく,放置した大便をブタに食べさせる,などの方法である。
ところが,排便処理の場所の構造は多様である。フィリピンのパラワン島南部のバタラサ地方の例を見ると,海沿いの村では早朝,波の寄せる海辺の水の中に排泄する。内陸部の家ではちょっとしたやぶの木陰で用を足したり,屋内の場合には,杭上家屋が多いから,普通の部屋の片隅の竹を組んだ床のすき間から下の地面に落とす。床下にはブタが飼われていて,そのブタが糞を食べる。この際排便の後始末に紙を使用する習慣はない。山や畑の隅で用を足しても毎日のようにやってくるスコールはきれいに流してくれる。またボルネオ島では河川沿いに発達した内陸の部落が多いが,こういう所では川の中に立って排便したり,杭上家屋から水中に落とす。これらは便所という特定の場所を持たない例であるが,とりわけ特異な事例というわけではない。中国やインド,ヨーロッパの宮廷遺跡などからは便所が発見されているが,フランスのベルサイユ宮殿に便所がなかったことはよく知られている。19世紀初頭あたりまでのヨーロッパの都市においては,便器壺に用は足すものの,朝,道に捨てるというのが普通であった。これに対し,日本の近世における伝統的都市の糞尿の多くは,近郊農村の肥料としていわば農業と有機的に結合していたゆえに,便所に集中され,都市は比較的清潔に保たれていた。幕末から明治初年にかけて来日した欧米人の残した記録には,日本の都市の清潔に感嘆しているものが少なくない。
執筆者:野口 武徳
便所には厠(かわや),閑所(かんじよ),雪隠(せつちん),後架(こうか),背屋,〈かど〉,〈ふろや〉,御不浄,〈はばかり〉など異称が多い。このうち,〈かわや〉は《日本書紀》にもみられる古い語で本居宣長の《玉勝間》ではその語義を水上で用便する原始的な水洗便所である河屋と解したが,これは東南アジア等で広くみられる形式であり,日本でもかつて山村の一部でみられたほかに《万葉集》でもうたわれている。この河屋説に対し,用便と肥料貯蔵を兼ねた母屋の側の小屋という意味の側屋説もある。閑所は鎌倉時代から一般化した語で,戦国武将の屋敷や江戸の奥(屋敷の私的空間)でも用いられた。雪隠は禅寺の便所の扁額に由来する語とされ,便所の位置により東司(とうす),西浄,登司(南),雪隠(北)と呼び分けたという。家屋は多く南面し,便所は一般に家屋の裏の北側に設けられたことから,雪隠の語が近世に広く普及し,今も方言として残っている。また便所の形式には,貯留式のほか水洗式や砂雪隠などの乾燥式のもの,さらに南島にみられるブタ小屋兼用のもの等があるが,農家では糞尿処理と肥料貯蔵から大きな貯留式の便所が屋外別棟に造られ,便壺に落ちないように梁から〈分別縄〉などという縄をつるした。便器も陶製のものが一般に普及したのは明治以降で,かつては木製のものが多く,単に穴をあけたもの,箱型,前立やふたがついたもの,じょうご型,桶に板を渡したもの等がみられた。便所の落し紙も新しく,農家では大正ころまで木の葉やわらのほかチュウギ,コキ箸とよぶ木片や箸が用いられていた。便所は御不浄の語が示すように一般に汚い場所とみられているが,便所には厠神がまつられるほか,生児が生後3日めに〈雪隠参り〉をしたり,便所で年取りの儀礼を行う地方もある。また便所に落ちると改名する習俗や,妊婦が便所をきれいに掃除すると安産するとか,きれいな子どもが生まれるという俗信も広く行われている。このほか,夜,新しい履物をおろすときは便所でおろせとか便所につばをはくな,あるいは夜に便所に行くなとか咳払いしてから入れなど多くの禁忌や俗信があり,これを犯すとよく目や歯にたたるといわれている。
近代の都市を中心に普及した汲取(くみとり)便所は,〈大正便所〉〈昭和便所〉などと呼ばれたように,衛生化また肥料としての質の向上をめざして改良が重ねられた。それには,汲取口を屋外に設け,臭気筒を設置し,貯留タンクを二重にするなど,地域によってさまざまな方法があった。現代では水洗便所も普及したが,住宅では自家用浄化槽で浄化した後に一般下水へ流す形式が大半を占める。これは,本格的な水洗便所に不可欠な公共下水道の完備,普及が,西欧諸国に比して遅れているためである。
→厠神 →下水道 →浄化槽
執筆者:飯島 吉晴
現代共通語で厠所という。〈厠〉の字は側,則と同系で〈かたよる〉の基本義に由来し,母屋からはずれた側屋が原義であろう。古語に〈圊(せい),圂(こん),偃(えん),豕牢(しろう)〉がある。甲骨文に見える圂が囲いの中に豕(ぶた)の象形文字,豕牢がブタ小屋の意でもあり,また漢代の明器(めいき)に豚舎兼便所の模型が出土しているように,豚舎と一体で人便をブタに始末させた便所がおそらく殷代から広く行われ,解放前まで残った。とくに華北では各戸に厠が設けられていなかったせいもあって,古くから〈虎子〉〈夜壺〉や〈馬桶〉といった便器が普及し必需品であった。近時まで伝承された厠神(かわやがみ)〈厠姑(しこ)〉〈紫姑〉の習俗は,5~6世紀の《異苑》《荆楚歳時記》の記録が最も古く,この女神は生前に妾となり,正妻に虐待されて厠で横死し神となったと伝え,正月15日に厠で娘たちが杓子,箕(み),笊(ざる),箒(ほうき)などで神体を作り,神降し,養蚕の占い,子授けや針仕事の上達を祈願した。
執筆者:鈴木 健之
古代エジプトやメソポタミアでは,建物内部に便所が設けられた形跡がなく,用便は便器を用いて処理され,戸外の穴に捨てられるか,あるいは直接戸外に掘った穴に用を足したと考えられる。しかし,クレタ島,クノッソスの新宮殿(前17~前15世紀)では,下水道が床下にめぐらされ,浴室や水洗便所が設けられ,この時代では異例の高度の衛生設備を備えていた。古代ギリシアでは,プリエネの住宅(前3~前2世紀)に便所らしい小室が見られるが,一般的には便所はなく,やはり便器を用いることが通例だったと思われる。古代ローマにおいては,公衆便所が著しく発展した。多くのローマ都市は上下水道を備えていたので,市内の要所,公衆浴場,ギュムナシウム(体育施設)などに大規模な水洗便所が設けられた。これらは,正方形,長方形,半円形などの中庭あるいは大室で,周壁に沿って深い水路をめぐらし,その上にベンチ状に大理石板の便座を設けたもので,汚物は直ちに水流により下水道へ送られた。今日からみると奇妙なことは,便座にあけられた円形あるいは鍵穴形の穴は60~70cm間隔で並ぶが,相互間に隔壁はなく,また前方にもまったく障壁がない。すなわち,大勢が互いに姿を見ながら用を足していたようで,これは当時のゆるい衣服と関連のある習慣だったようである。中庭の中央には,通例水盤や列柱が設けられていた。ローマやオスティアのインスラ(共同住宅)では,ふつう一階だけに便所室があり,下水道に接続されていた。しかし,ポンペイ,ヘルクラネウム,オスティアでは,二階に排水管が設備されている例も少数ある。
中世においても,便器の使用が一般的であったが,修道院や城郭には,ときには建物につくりこんだ便所があった。修道院ではクロイスター(中庭回廊)の一部に石造の腰掛便器が設けられ,城郭建築では厚い壁のなかや城壁上端に衛兵用の便所がつくられ,排泄物は外壁の穴から外へ落とす形式が多い。この状況はルネサンス以降も変わらず,通常の住宅や宮殿にはまったく便所がつくられなかった。豪奢をきわめたベルサイユ宮殿にも専用の便所や浴室は設けられていなかったといわれ,便器やたらいが用いられていた。
便器に金属板を差し込み,臭気が洩れるのを防ぐという試みは,エリザベス朝のイギリスですでに行われていたが,排水管を屈曲させて臭気止めのトラップをつくる着想は18世紀後期まで現れなかった。その実用化はさらに遅れ,水洗便器は19世紀後半になってようやく普及するようになった。近代の水洗便所には,大別してイギリス式の腰掛便器と地中海型のしゃがみ便器があり,イギリス式がホテルや公共建築に採用されることが多いため,イギリス式腰掛便器がしだいに国際的なものになりつつある。
執筆者:桐敷 真次郎
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…辻には通行人の利用しあう設備も置かれた。路傍にある共同の井戸を辻井戸,町かどにある共同便所を辻便所といった。また,延宝年間(1673‐81)の京都にはやった辻風呂とは,風呂桶を路上にもってきて料金をとって入浴させたもので,元禄年間(1688‐1704)に居風呂(すえふろ)をかつぎ歩き,銭3文をとって入れた〈荷い風呂(にないぶろ)〉と同じ風俗である。…
…近代歯科学の祖であるフランスのフォーシャールPierre Fauchard(1678‐1761)は歯痛に自分の尿でうがいすることを推奨している。若い男女の尿には性ホルモンが多いので,現代でも自衛隊の便所から尿を集めて男性ホルモンを抽出精製している。一方,日本には木や川やミミズに小便をかけると陰茎がはれるとか,カエルにかけるといぼができる,火事に向かって小便すると腰が抜けるなどの俗信も多くあり,いずれも場所柄をわきまえない放尿を戒めている。…
… 糞はまた,古代中国では豚など家畜の飼料としても利用された。柵をめぐらせて豚を飼い人糞で育て,後にはここに厠を設けたので,便所を意味する〈圂(こん)〉や〈溷(こん)〉の字がある。人糞に残った栄養物をなお消化しうるから豚が食べるわけで,落ちてくる糞を豚が待つ厠は,かつて大陸から琉球,台湾,さらにフィリピンにまで伝えられた。…
※「便所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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