翻訳|Puritan
16~17世紀のイングランド,およびニューイングランドにおける改革的プロテスタント・キリスト者の総称。通常〈清教徒〉と訳される。〈ピューリタン〉という名称は,最初イングランドの女王エリザベス1世のアングリカニズム(英国国教会中心主義)による宗教政策を不徹底な宗教改革とみなし,国教会をジュネーブの宗教改革者カルバンの教会改革のモデルに従って徹底的に改革しようとしたプロテスタントにつけられたあだ名であった。これは中世の異端カタリ派(英訳すればpuritan)を暗示する汚名であったが,やがて教会からカトリック的残遺物を排除し,聖書に従うことによってこれを〈ピューリファイ(浄化)〉することを求める人という積極的意味をもつようになった。ただし,ピューリタンの範囲を正確に定義するのは困難で,国教会からの非分離派のカルビニスト(後の長老派),分離派のカルビニスト(後の独立派),分離派の非カルビニスト(後の諸セクト)の三者を包含する用語とするのが通説である。
エリザベス時代は,エリザベスの巧みな行政とともに,教会政治的にはホットギフトJohn Whitgift,思想的にはR.フッカーの活動によって抑止され改革の目的が達成されず,かえってR.ブラウンらの過激なピューリタン(国教会からの分離派)を生み出した。エリザベスの死後ジェームズ1世が即位したとき,ピューリタン牧師たちは〈千人請願〉を提出し改革の推進を求めたが,《欽定訳聖書》作成の願望以外はすべて受けいれられず,国教会体制はさらにひきしめられて継続することとなり,不満なグループはオランダやニューイングランドに移住するようになった。1620年メーフラワー号の人々(ピルグリム・ファーザーズ)がプリマスヘ上陸し,30年以降はボストン周辺へ大移住を行った。後者がニューイングランド・ピューリタニズムの最初のにない手となった。ニューイングランドでは祖国イングランドで達成できなかった改革の理想を〈神政政治〉として実現しようとした。
しかしイングランドではチャールズ1世の即位後ピューリタンに対する弾圧は激化し,ついに40年長期議会召集を機にピューリタン派が多数を占めた議会と国王とが衝突,ピューリタン革命が起こった。43年からウェストミンスター教会会議が開かれ国教会を長老教会体制に改革する計画が進められたが,戦争の推移の中で独立派が優勢となり,49年チャールズ王を処刑しO.クロムウェルによる独立派主流の共和政が敷かれた。
革命がチャールズ1世の処刑によって最高潮を迎えたころ,ピューリタンの内部分裂はいちだんと激しくなり,数多くのセクトが活動を開始し,なかには千年王国説に立って〈神の王国〉の実現を訴えるものも出て,ピューリタンの神秘主義への傾斜がみられた。このような背景のもとで,53年〈ピューリタンの英雄〉クロムウェルの独裁政権が樹立される。彼は政権維持の必要もあって,安息日遵守,風紀の取締り,演劇・賭けごとなどの娯楽への規制を行った。かかるピューリタン的規制が,王政復古の一つの要因として働いたことは否定できない。革命は60年の王政復古によって挫折し,ピューリタンはまたもや弾圧された。王政復古後は,ピューリタンは急速に解体してしまい,国教会に吸収された者が多かったが,今日のイギリスの非国教徒教会のうち,長老派,独立派(会衆派),バプティスト,クエーカーなどはいずれもピューリタンの流れをくむものである。
ピューリタンの思想家としては,エリザベス時代のカートライトThomas CartwrightやトラバースWalter Travers,ジェームズ時代のパーキンズWilliam ParkinsやエームズWilliam Ames,共和政時代のR.バクスターやオーエンJohn Owen,とりわけ詩人にして思想家J.ミルトンがあげられる。J.バニヤンは王政復古後のピューリタンの生き方を代表する。
ピューリタンの思想は広くはカルビニズムの流れに属するが,〈契約神学〉と呼ばれる独自なもので,神人関係も社会関係(家庭や国家)も契約で考え,聖書にのっとって地上に理想社会(〈神の国〉〈キリストの王国〉〈新しいエルサレム〉などと呼ばれる)を実現し,神に対し責任をもつ生活をすることを目標とした。ここには厳格な律法主義を生み出す危険があったが,ピューリタン革命の中から近代憲法の社会的自由や人権や寛容の思想が生み出されたことは注目されねばならない。また,資本主義の形成に果たしたピューリタンの影響を強調したM.ウェーバーの解釈は,多大の論議を呼んだ。ピューリタンの理念はアメリカ文明の基本理念となって生き続け,さらには世界的に広まっていった。
→ピューリタン革命
執筆者:大木 英夫
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清教徒。エリザベス1世の宗教改革を不徹底とし、聖書に従ってさらに徹底した改革を進めようとしたイギリス・プロテスタント。その思想的背景はカルビニズムで、その改革運動は16世紀から17世紀に及ぶ。国教会(イングランド教会)にとどまり内部からの改革を志向するもの、それからの分離こそ改革の第一歩とするもの、ピルグリム・ファーザーズのように国外に脱出して理想を実現しようとするものがいたが、カルバン主義的改革を目ざした長老派を中心に、独立派、バプティスト派、クェーカー派、水平派、ディガーズ、第五王国主義者などの諸派に分かれる。彼らの改革運動は、礼拝改革から教会政治改革に移り、さらに政治的改革へと向かった。国教会の弾圧のなかにも説教運動やクラシス運動などによって共鳴者を増やし、ジェームズ1世時代には、彼らの要求によって『欽定(きんてい)訳聖書』(1611)が現れる。ついにチャールズ1世のとき革命が起こり、ピューリタンはクロムウェルのもとに王政を倒し、共和政を樹立した。『失楽園』の詩人ジョン・ミルトンはその秘書であった。しかし共和政は11年で終結し、王政復古、国教会の復活となり、ピューリタンはやがて非国教会派となる。聖書主義、簡素な霊的礼拝の強調、神への強烈な責任意識、聖なる共同体の建設などがピューリタンの中心的主張であった。また政治的、経済的にも、近代社会の形成に果たした役割は大きいとされている。
[小笠原政敏]
宗教改革の不徹底性からイングランド国教会に残存したカトリック的な要素を除去して,「清らかな教会」に改革しようとした,16~17世紀のプロテスタントの総称。清教徒と訳す。国教会の内部に留まって改革しようとする非分離派と,その外に出て信者の自発的な組織をつくろうとする分離派に大別され,また教義においてはカルヴァン主義者が大半を占めたが,それに反対のものも存在した。ピューリタン革命の主導勢力としてイギリスの近代化に貢献し,またステュアート朝の弾圧を逃れてアメリカ植民地に移住したピューリタンも,その地の社会生活と国民性に独自の伝統をつくった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…ニューイングランドは歴史的・地理的に一体性の強い地方で,1614年この地方を探検したジョン・スミスによりニューイングランドと名づけられた。20年プリマスに渡来したピルグリム・ファーザーズが初めて入植に成功,30年にはジョン・ウィンスロップを総督とするピューリタンの一団が,ボストンを中心にマサチューセッツ湾植民地を建設した。これに次ぐ10年間に聖職者を含むピューリタンが多数渡来,発展の基礎をつくった。…
…それ以前のイギリスは,ユーラシア大陸の辺境に位置した後進的な存在にすぎず,大陸諸国の圧力のもとで国民国家としての自立の道を模索していた。17世紀のイギリス革命(ピューリタン革命と名誉革命)を契機にして,イギリスはそれまでの大陸諸国に〈学ぶ〉立場から,模範として〈学ばれる〉立場に変わった。日本がイギリスとの本格的な交渉を開始した時点が,ビクトリア女王のもとでイギリスが最も隆盛を謳歌した時期であったことが,日本のイギリス像に影を落としつづけたといえよう。…
…しかし相克はやがて破局にエスカレートする。ピューリタン革命が起こり,これに全身全霊を打ちこんだミルトンは,彼の奉じた大義の挫折のあとで,あらためて神の意志と人間の運命とを問い直す大叙事詩に筆を染めた。《失楽園》(1667)に教会の朗々たるパイプ・オルガンの響きを聞くのは,おそらくいろいろな意味において正しい。…
…サフォーク州の富裕な地主の子に生まれ,所領を継ぐ。ケンブリッジ大学在学中ピューリタンの感化をうける。弁護士として身をたてたが,宗教的抑圧が強化されるとニューイングランドへ移住を決意,マサチューセッツ湾会社総督としてピューリタンの一団を率いて1630年に渡米。…
…これはルター派教会と改革派教会,およびスコットランドの長老派教会をもっている。イングランドでは国民教会に変わったアングリカン・チャーチに対してさらにピューリタン革命があり,そのあと多くの教派が興るようになった。 こうして,キリスト教はこんにち三大教会とプロテスタント内諸教派とから成っている。…
…1627年のクリスマスに,枢密院はロンドン主教に対して,イギリスに亡命してきたフランスの新教徒救済のため,主教区全体から寄付金を集めるように命じ,古きよき時代のクリスマス精神を懇請した。
[ピューリタン革命時代]
王党派とイングランド教会は楽しい伝統的慣習を象徴する日としてクリスマスを祝った。しかし,謹厳なピューリタンはこの日をローマ・カトリックの祝日として非難し,暴飲暴食,ダンス,かけ事,乱ちき騒ぎその他諸悪に結びつく祭日として攻撃した。…
… スコットランドではJ.ノックスの率いた宗教改革によって,1560年その国教会は長老派教会となったが,同時期のイングランドではカートライトThomas Cartwrightなどの少数の支持者を得たにすぎなかった。しかし17世紀に入りピューリタンの主流を長老派が占めるようになり,ピューリタン革命勃発後はさらに勢力を伸ばし,ことにスコットランドからの強い圧力のもとで,1643年長期議会は〈厳粛な同盟と盟約〉によってイングランドへの長老派教会の導入を約束し,46年〈ウェストミンスター信仰告白〉が定められた。これは現在でも長老派教会の信仰基準とされている。…
…しかしその後,河川の沈泥で港湾機能が低下したため衰退した。17世紀にはJ.コットンら多くのピューリタン指導者がこの地から新大陸へ移住し,ニューイングランドに同名の都市が建設された。セント・ボトルフ教会には高さ83mの頂塔がある。…
※「ピューリタン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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