安土桃山時代の堺の豪商,茶人。信長・秀吉時代の天下三宗匠の中の一人。近江国の地侍の子として生まれ,彦右衛門兼員と称していたが,本願寺門徒として堺に入り,納屋宗次の家に寄宿し,武野紹鷗(たけのじようおう)の女婿となる。このころから納屋宗久と称して茶会の往来をはじめたらしく,伝存する茶会記《今井宗久茶湯書抜》は1554年(天文23)から89年(天正17)に至る,83回の茶会記が収められている。それと同時に近江から東海地方にまで商圏をのばし,納屋業(倉庫兼金融業)のほか薬種,火薬,鉄砲などの商売も行って巨富を得た。1568年(永禄11)に信長が入京するや〈松島茶壺〉と〈紹鷗茄子(茶入)〉を献上して信任を得る。ときに矢銭を課された堺衆が信長に一戦を挑んだときも,これを不発に終わらせた。この功によって堺五ヶ庄の代官職をはじめ,信長の蔵元になったり,但馬生野銀山の経営を任されるなど,多くの利権を与えられ,堺町人の随一として信長の政権に関与した。そのうえ信長の茶頭ともなって津田宗及,千利休の参仕をもはからっている。また秀吉の時代になっても同様の力をもって三宗匠の筆頭に位置したが,利休のように常侍することがなかったことと,本願寺との関係によってしだいに秀吉から疎んぜられるようになり,排除された。
執筆者:筒井 紘一
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安土(あづち)桃山時代の豪商、茶人。名は彦右衛門兼員(ひこえもんかねかず)、宗久は法号、昨夢斎と称した。堺(さかい)の納屋衆(なやしゅう)の随一で、家号も納屋を称する。武野紹鴎(たけのじょうおう)の女婿となり、紹鴎名物の多くを伝領した。1568年(永禄11)9月、上洛(じょうらく)した織田信長が堺の町に矢銭(やせん)2万貫を課したのに対し、町衆による抗戦の働きが高まった際、津田宗及(そうきゅう)とともに講和派の中心として行動した。その間積極的に信長に接近し、紹鴎伝来の名物茶器を献上、翌年7月には岐阜に下り、歓待されている。これ以後、武器、火薬の調達、生野(いくの)銀山の開発など、政商として活躍する一方、宗及や千利休(せんのりきゅう)らとともに信長の茶頭(さどう)となる。利休を推薦したのは宗久であった。ただし茶頭としては、信長の上洛時とか、安土築城後はときおりそこに参上する程度で、常時近侍奉仕したわけではない。本能寺の変後はそのまま豊臣(とよとみ)秀吉の茶頭となった。しかし、本願寺と密接な関係をもっていたことや、「茶の湯に思い入れがない」とされたため、しだいに秀吉にうとんぜられ、1587年(天正15)の北野大茶会あたりから、その活躍はほとんどみられなくなる。茶会記の一部が『今井宗久茶湯日記書抜(かきぬき)』として伝えられている。
[村井康彦]
(戸田勝久)
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1520~1593.8.5
織豊期の堺の商人・茶人。千利休・津田宗及(そうぎゅう)につぐ天下三宗匠の1人。号は昨夢斎。大和国今井に生まれ(一説に近江国),堺にでて納屋宗次の家に住み,同家を継いだ。織田信長の堺への矢銭(やせん)賦課に対しては,保守派の抗戦論に対して和平論を主張,信長の武器調達にも協力して信頼をえ,堺五箇荘代官に任じられた。茶道を武野紹鴎(じょうおう)に学び,信長の茶頭(さどう)として,京都妙覚寺茶会・相国寺茶会に参席した。茶会記に「今井宗久茶湯書抜」がある。松島茶壺・紹鴎茄子(なす)(茶入)・定家色紙などの名物を所持した。茶室に大徳寺黄梅院昨夢軒がある。
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