福島県の会津若松地方でつくられる漆器。歴史は古く,すでに桃山時代以前より会津藩主蘆名氏のもとで行われていたと伝えられる。1590年(天正18)蒲生氏郷が近江から会津に移封され,故国近江から木地師(木地屋),塗師を呼び寄せ,日野椀の製法の導入など,漆器産業の基を築いたという。その後藩主は上杉,加藤,保科氏と交代したが,いずれも漆栽培の奨励,漆器産業の保護・育成に力を尽くし,江戸時代にすでに産業としての体制を確立し,全国的にも知られていた。幕末には長崎を通じて会津漆器の輸出も手がけ,その先見ぶりを発揮している。伝統的加飾技法としては,消粉蒔絵,沈金などが有名で,とくに前者は会津独特のものである。板物素地にはホオノキとカツラ材を,丸物にはブナ,トチなどを用いる。製品の種類は椀,重箱,膳,盆など多彩である。第2次大戦後の漆器産業の危機に際しては,いち早く金胎,陶胎や合成樹脂素地の開発・利用,カシュー塗料の使用に踏み切り,全国有数の漆器産地の地位を保持している。
執筆者:鈴木 規夫
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福島県会津若松市特産の漆器。そのおこりは古く、とくに宝徳(ほうとく)年間(1449~1452)蘆名(あしな)氏11代盛信がウルシの木の栽培を奨励したことや、13代盛高がろくろ木地挽(きじひ)きに赤や黒の漆を塗った椀(わん)、盆、鉢などをつくらせた記録より知られる。文明(ぶんめい)年間(1469~1487)成立の『桧原(ひはら)軍物語』に磐梯山麓(ばんだいさんろく)の桧原に70余軒の木地挽きがいたという裏づけがある。1590年(天正18)蒲生氏郷(がもううじさと)が領主となり、故郷の近江(おうみ)国(滋賀県)から木地師や塗師(ぬし)を多数移住させ、塗大屋敷とよぶ伝習所で漆器の産業化を図ったが、その製品は実用品がおもなものであった。加藤氏時代の1627年(寛永4)に海東五兵衛が会津絵とよぶ加飾をした秀衡椀(ひでひらわん)系統の素朴な製品をつくった。松平氏のもとでは、寛政(かんせい)年間(1789~1801)に家老田中玄宰によって京都から金粉、金箔(きんぱく)や漆塗、消粉蒔絵(まきえ)の工人を招き、藩自ら漆器製作の技術指導にあたり、かつ享和(きょうわ)年間(1801~1804)に長崎で会津漆器の輸出を行った。現在は日本有数の主として食器、家具の漆器産地で、1976年(昭和51)に「伝統的工芸品」の指定を受けた。
[郷家忠臣]
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福島県会津若松市周辺で製作される漆器の総称。消粉(けしふん)・平極粉(ひらごくふん)を用いた蒔絵(まきえ)をはじめ,変塗(かわりぬり)など幅の広い表現が特色。起源は不明だが,室町中期に当時の領主蘆名(あしな)氏が漆器の生産を奨励したことに始まるといわれ,その後も蒲生氏をへて保科氏まで歴代領主の手厚い保護をうけた。江戸時代に入ると,漆器は会津藩の経済を支える重要な産品として専売の対象となり,ウルシノキの栽培,職人の育成などが組織的に行われた。
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