翻訳|lip
口唇ともいう。哺乳類の口の上および下の縁をなす軟らかくて可動性の大きい部分。上の縁を上唇(じようしん),下の縁を下唇(かしん)という。一般に上下のあごをもつ脊椎動物で口の上下の縁を便宜的に上唇・下唇と呼ぶことがあるが,厳密な意味での口唇は哺乳類特有のものである。爬虫類以下の動物では,口の縁は筋肉を欠き,硬くて可動性がなく,そのすぐ内側に歯列があり,もっぱら食物や外敵に食いつくのに適した構造になっている。また鳥類では口が角質のさやに覆われたくちばしになっているので,もちろん口唇はない。それに対して哺乳類では,歯列の外側には深い溝(口腔前庭という)があり,それを隔てた外側に可動性の大きい肉質部がひだ状にはり出している。この部分の全体が広義での口唇である。口唇の外面は通常の皮膚で,毛と皮脂腺が備わり,薄い表皮の下に厚い真皮がある。口唇の内面は口腔粘膜に裏打ちされている。ヒト以外の哺乳類の口唇はほぼこのようなものだが,ヒトでは内面の粘膜が外気にさらされる外面にまでめくれ出し,口腔粘膜から皮膚にいたる移行帯をなしている。ヒトで俗に唇と呼ばれるのはこの部分で,強い赤みをおびているので解剖学上は紅唇または唇紅,赤唇縁という。その表面は角質化の弱い上皮に覆いつくされ,毛も皮脂腺もなく,汗腺その他の外分泌腺もない。紅唇の内部には,口を輪状にとりまく表情筋(皮筋)である口輪筋やそれと直交する唇直筋の繊維が表面近くに存在する。また紅唇では,皮膚に比べて最外層の粘膜上皮が厚いが,その下に進入した粘膜固有層の乳頭には毛細血管が多く分布するうえ,上皮の透明度が高い。紅唇部が強い赤みをもつのは,こうした組織学的特色のためである。この部分は,内部の表情筋繊維のはたらきで,複雑微妙な運動をすることができる。高等な哺乳類のなかでも下顎を複雑に動かす有蹄類や霊長類には,口唇をよく動かすことのできるものが多いが,ヒトだけに紅唇がみられることは,言語の発達に伴う微妙な発音と関係があるのかもしれない。
執筆者:田隅 本生
口唇炎はいろいろな原因で生じた口唇部の炎症で,原因には外傷,感染,光線,アレルギーが挙げられるほか,全身性疾患の一症状のこともある。口角炎は,口角潰瘍,口角亀裂とも呼ばれ,口角の皮膚と粘膜の移行部が白くただれて潰瘍となった状態で,初めは乾燥して放射状に亀裂が生じ出血するが,後に唾液で膨化してはれ潰瘍状になる。口を開くときに痛み出血することがある。俗に〈烏のお灸〉という。原因は明らかでないが,発熱や消化器障害の場合にできやすい。口唇癌は,白色人種には比較的多くみられるが,日本人ではきわめて少ない。大部分が下唇に生じる。喫煙,日光紫外線などが原因として挙げられているが,人種的素因も否定できない。悪性度は比較的低いといわれる。
→唇裂
執筆者:藍 稔
〈くちびる〉は〈くちべり(口縁)〉のことで正字は脣だが,現在は医学用語でも〈唇〉をあてる。解剖学的には鼻の下からおとがいの上までが唇である。〈歯のあるすべての有血動物には鼻の下に唇がある〉とアリストテレスはいう(《動物部分論》)。ギリシア語のcheilos,ラテン語のlabia,lip(英語),Lippe(ドイツ語),lèvre(フランス語)のいずれも,鼻の下からおとがいの上までを指しており,日本語の〈唇〉とは異なる。日常的には唇は解剖学的に紅唇をいい,口ひげの生えるところは通常唇といわないが,lipなどの一部である。
紅唇,つまり表皮角化が少なくメラニン色素を欠く部分は唇の外縁まで達していないことがあり,ことに日本人では達していないことが多い。C.H.シュトラッツによれば,唇の薄い中国人と日本人とをこの点でも区別しうるという(《生活と芸術にあらわれた日本人のからだ》)。能面の孫次郎,増女その他にもこの特徴が写されて曖昧の美を醸している。紅唇は茜色(フランス語garance,英語madder)であるのが最も健康的で美しいとされた。また,紅唇の厚さは人種によっても異なり,たとえば黒人のは厚く突き出し,北米インディアンのは薄く口裂が長い。ゴーギャンははじめ《夜会服のメット・ゴーギャン》や《マドレーヌ・ベルナール》などで西欧人に典型的な唇を描いたが,タヒチに移住して後は現地人の厚く大きな唇を好んで描き,手記の中で唇の美の規準も相対的なものであることを述べた。
人の唇は他の霊長類に比べて厚く外へめくれている。D.J.モリスは,人が直立したために性的信号を前面から送るようになり,めくれた赤唇は陰唇を模倣した信号となっているという。彼によれば,唇の薄い類人猿も上手にキスするから,人の唇の形は触覚よりも視覚信号であり,性的興奮によって唇も膨れるし,文化的にも数千年の昔から口紅で赤く装い性器を暗示してきた。男性にもめくれた唇はあるが,乳首が男性にあっても性的信号とはならないように,唇は男性の性的信号ではない。黒人の唇が厚くめくれているのは,皮膚の黒さが唇の視覚信号としての価値を低めるので,大きく突出することによって色のコントラストで失ったものを形と大きさでとりもどしていると彼は説明する。
ハプスブルク家には遺伝的に唇の異常があり,〈Austrian lip〉といわれた。すなわち,カール5世は下顎が上顎をはるかに越えて突出していたため,老いて残った歯がかみ合わず,聞きとりやすい声でしゃべれなかった。スペインのフェリペ2世も同様の重く垂れ下がった唇と大きな口と怪物のように突出した下顎だったし,スペインのハプスブルク家最後の人カルロス2世も食物を咀嚼(そしやく)できないくらいあごの変形がひどかったという。唇も人相学でさまざまに論じられた。アリストテレスの《人相学》では,一般に薄い唇を良しとし,厚い唇は嫌われている。ヒルティは,人相学をごまかしの学問として退けながらも,厚い唇は享楽欲を,への字をした口は嫉妬または気難しい気質を表すなどといった(《幸福論》)。一方,美食家ブリヤ・サバランは,先天的美食家の肉体的条件の一つに唇が厚ぼったいことを挙げている(《美味礼讃》)。唇の人相学的意味づけには,もちろん確たる信憑(しんぴよう)性がない。
→口
執筆者:池澤 康郎
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解剖学名では口唇(こうしん)といい、クチビルと書く。とくに哺乳(ほにゅう)動物において発達した筋肉性のひだで、上唇(ウワクチビル)と下唇(シタクチビル)が上下にあって、水平な口裂を囲んでいる。口裂の両端外側を口角とよび、ここで上唇と下唇が連絡するが、この部分を唇交連という。口唇の外面は顔面の皮膚と同じ構造で、口腔(こうくう)に面した内面は口腔粘膜で覆われている。口唇で赤く見える部分は皮膚と口腔粘膜の移行部で、口唇縁とか赤唇縁(唇紅(しんこう))といい、ヒトの特徴となっている。皮膚と粘膜との間には、口輪筋とよばれる筋を中心として、血管、神経、粗い結合組織、脂肪組織などが存在し、皮膚側には毛、脂腺(しせん)、汗腺など、粘膜側には数多くの口唇腺がある。口唇腺は粘液(粘性のある液)と漿液(しょうえき)(塩類、タンパク質、および酵素を含む水分の多い液)とを混合分泌する唾液(だえき)腺の一種である。口唇縁は表皮層が厚く発達し、角化現象が少なく、また、表皮層下には毛細血管が豊富に入り込んでいるため、赤く見える。新生児では口唇縁の内側表皮が肥厚し、毛に付随しない脂腺が多数存在しているが、こうした構造は乳を吸うのに役だつものと思われる。口輪筋は口裂を取り囲み、口裂を閉じる括約筋の働きをしている。口唇を前方に突き出したり、口をすぼめたり、口笛を吹いたりするときにこの筋が働く。口裂が開くのは、口唇周囲で放射状に走る多くの拡張筋によっている。これらの括約筋、拡張筋の活動によって口唇が動かされ、さまざまな表情の表現が可能となるわけである。口唇には、三叉(さんさ)神経(第5脳神経)の枝が分布し、その知覚性終末が多数存在するので、口唇はきわめて敏感であり、一種の性感帯ともなっている。上唇の正中部には鼻中隔から浅い溝が下行するが、これを人中(じんちゅう)という。上唇と頬(ほお)との間には鼻翼外側から唇交連に達する鼻唇溝がある。一般にクチビルとよぶ場合は、赤唇縁をさすが、解剖学上は鼻唇溝より内側の部分を広く口唇としている。いわゆるクチビル(赤唇縁)の形態は人類学的にも重要な因子で、たとえば薄唇型(ヨーロッパ型)、厚唇型(アフリカ型)などがあり、下唇がめくれたように厚いのは黒色人種の特徴である。このほか、クチビルの形、色、つやなどは人の描写部分として重要なポイントとなる。
[嶋井和世]
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