公募したデザインを基に1920年に東京・永田町で着工、36年に完成した。地上3階(一部4階、塔は9階)、地下1階の鉄骨鉄筋コンクリート造り。衆院の資料によると、建設費は約2574万円で、延べ約255万人が従事した。鍵などを除き国産材料を使用。花こう岩の外壁から「白亜の殿堂」と呼ばれる。1890年の国会開設から現議事堂の完成までは四つの仮議事堂を使用。うち94年の日清戦争時は大本営が置かれた広島市に造られた。
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立憲政体の国家において、立法会議の行われる建物の総称。各国それぞれの伝統により、固有の名称をもつ。日本においては、衆議院および参議院が置かれ、国会の議事が行われる建物の通称である。衆議院では通常「議事堂」という。所在地は東京都千代田区永田町1丁目。
[福永和彦]
1881年(明治14)明治天皇の勅諭による国会開設の決定以来、議事堂の建築が建議されてきたが、1890年の第1回帝国議会の召集にまにあわせるため、現在の東京都千代田区霞が関(かすみがせき)1丁目(現、経済産業省構内)の位置に木造の仮議事堂が建築された。以来1891年、1925年(大正14)の二度の火災にあい、そのつど、木造の仮議事堂を再建して1936年(昭和11)に至った。その間の1894年日清(にっしん)戦争に際しては、広島市内に臨時の仮議事堂が建築され、第7回(臨時)帝国議会が開かれている。また、第一次仮議事堂焼失の際、貴族院仮議場として山下町の帝国ホテル食堂(当初は華族会館内)を、衆議院仮議場として虎ノ門(とらのもん)の元工部大学校を使用した。
議事堂本建築の計画は、1886年に内閣に臨時建築局が設置されて、議事堂および中央官衙(かんが)建築に関する準備調査に着手し、1887年には建築予定敷地を現在位置(当時の麹町(こうじまち)区永田町1丁目)とすることが閣議により決定されたが、具体的計画の立案は財政事情などのため大幅に遅延した。その間、1899年の議院建築調査会の設置をはじめ、敷地の調査、地盤調査、材料調査等も実施され、官民各界における、建築様式、設計方法などの議論も活発に行われながらも、数次にわたる計画の休止、延伸を繰り返したうえ、1917年(大正6)当時の大蔵省に設置された議院建築調査会の発足と、それによる1918年度からの予算計上によりようやく設計着手の運びとなった。設計者については、朝野の多くの議論ののち、「建築意匠設計はこれを国内一般の懸賞競技に付する」ことが決定された。また、第一次、第二次仮議事堂の設計や、当初の本建築計画の際は、当時の日本の技術水準、不平等条約改正の政略面などから外国人建築家の協力を受けていたが、技術力の充実、国粋主義傾向の台頭などにより、応募者は日本人のみとし、材料もやむをえぬもの以外は国産品に限ることとした。このような経過を経て1919年に二段階方式の競技設計が実施され、渡辺福三の作品が一等当選となったが、結局その設計案は参考とするにとどめ、大蔵省営繕(えいぜん)管財局(当初臨時議院建築局。技師長矢橋賢吉)の手により実施設計がまとめられ、1920年着工、1936年に帝国議会議事堂として竣工(しゅんこう)した。
[福永和彦]
鉄骨鉄筋コンクリート造地上3階(一部4階、中央塔屋9階)建て、外装花崗岩(かこうがん)石積み。延べ床面積5万3466平方メートル、様式は「近世式」と称している。正面向かって左側に衆議院、右側に参議院を配し、それぞれ独立の玄関をもつ。また中央塔屋下に中央玄関があり、国会の開会式、選挙後の衆・参両院議員の初登院、そのほか特別の場合に利用される。主要室数390、小室を含め約450室を有し、廊下延長は約4.64キロメートル。建築資材は、ステンドグラス、錠前などのほかは全面的に国産品を使用。内外装石材は広く日本全国から求めている。建築費用は竣工時累算2580万円、工事従事者は延べ254万人。
両議院の議場は左右両翼の2階にあり、それぞれ743平方メートル。議席は演壇を中心として同心の半円状に配列され、各議員の議席は指定されている。演壇後方に議長席、その向かって左側に事務総長席があり、議長席の両翼前列に大臣席、後列に事務局職員席がある。参議院議場には正面中央に、開会式の際用いられる御席(おんせき)がある。傍聴席、報道席などは議場吹抜け上部3階に設けられている。委員会の開かれる衆議院の委員室は16室、参議院の委員会室は18室であるが、両議院ともその約半数は構内に新築された分館内に設けられている。中央玄関から中央階段を経て到達する建物中央西側の3階には、天皇の御休所(ごきゅうしょ)とその付属室があり、その下の2階には大臣室があって、国会開会中はここで定例閣議が開かれる。付属施設としては、道路を隔てた議事堂西側に議員会館3棟があり、議員1人ごとに事務室が提供されている。また正面東側に公園施設として国会前庭があり、その北地区内に憲政資料を展示する憲政記念館がある。議事堂正面北側に国立国会図書館がある。
[福永和彦]
それぞれの国の政体、伝統に応じて種々の形式をもつ。二院制の国では日本同様に同一建物に併置される場合(イギリス、アメリカ、スイス)が多いが、二院が同一議場を交替で使用するもの(タイ)や、別個の建物に置かれるもの(フランス、イタリア)などの例がある。併設の場合も、左右対称(アメリカ)、前後配列(スイス)、不均整配置(ブラジル)などの諸例がある。
[福永和彦]
ロンドンのテムズ河畔にあり、旧議事堂として用いられたウェストミンスター宮殿の焼失後、公募に当選したC・バリーおよびA・W・ピュージンの設計により1852年完成。大時計ビッグ・ベン、ビクトリア・タワーなどにより象徴されるゴシック様式建築。一部火災前の遺構も残る。下院議場は1941年ドイツ機の爆撃による破壊後ほぼ旧態に復原された。議員は定席を有しない。
[福永和彦]
首都ワシントンのキャピトル・ヒルにあり、1793年起工後、数次にわたる改修、増築ののち1861年ほぼ現状となった。中央ドーム上の自由の女神像は1863年取り付け。当初建築部分の設計は、競技設計に当選したW・ソーントンによる。建物は東面し、南北に下院、上院を配置する。日本国会の議員会館に相当する建物や、国会図書館などの付属施設は広範囲に広がり、専用の簡易地下鉄道などによって結ばれている。
[福永和彦]
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東京都千代田区永田町にあり,正面左に衆議院,右に参議院(旧貴族院)を配する。旧帝国議会議事堂は当初ドイツのエンデ・ベックマン事務所により本格的なネオ・バロック様式で計画されたが,井上馨の失脚等により実現されなかった。1890年の第1帝国議会に間に合わせるため,木造の仮議事堂として日比谷に建造。以後1897,1907年と本建築化が浮上したが財政事情などから頓挫し,現議事堂への動きは17年に始まった。19年設計競技により図案が募られたが,当選案の様式が新旧各層の反発を呼び,とくに下田菊太郎は議会に働きかけて〈帝冠併合式〉(欧風の壁体に和風屋根を載せる)の採用を請願し賛意を得た。設計は大蔵省内部で進められ20年に着工,36年に竣工した。様式は,遅れて出現した新古典主義といえ,ナチス・ドイツの様式に通じるものがある。鉄骨鉄筋コンクリート造花コウ岩張り,地上3階一部4階。延べ面積約5万2500m2。すべてに国産材料が用いられた。
執筆者:丸山 茂
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昭和期を代表する建築物。最初の本議院建築。東京都千代田区永田町。1886年(明治19)内閣に臨時建築局を設置し,エンデやベックマンらドイツ人建築家を招いて諸官庁の集中計画にあたらせたが,議院建築は木造の仮議院を建設しただけに終わった。99年議院建築調査会,1910年には議院建築準備委員会を設置。大蔵省の官僚建築家妻木頼黄(つまきよりなか)と建築アカデミーに君臨する辰野金吾らとが対立し,「我国将来の建築様式を如何にすべきや」論争をまきおこしたが,議院建築は実現しなかった。18年(大正7)大蔵省に臨時議院建築局が設けられ,同局工務部長矢橋賢吉らが設計競技当選案を大幅改訂して,20年着工,36年(昭和11)8月竣工。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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