宇喜多直家(読み)うきたなおいえ

精選版 日本国語大辞典 「宇喜多直家」の意味・読み・例文・類語

うきた‐なおいえ【宇喜多直家・浮田直家】

  1. 戦国時代武将興家の子。主家浦上宗景を逐って、岡山城拠点美作備中勢力をもった。羽柴秀吉に属して毛利軍と抗戦。法名涼雲星友。享祿二~天正九年(一五二九‐八一

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改訂新版 世界大百科事典 「宇喜多直家」の意味・わかりやすい解説

宇喜多直家 (うきたなおいえ)
生没年:1529-81(享禄2-天正9)

戦国時代の武将。浮田とも書く。三郎右衛門,和泉守。先祖は備前邑久郡の豪族。はじめ備前守護代浦上氏家臣。備前西部の雄族松田氏を滅ぼし,毛利氏と結んで,備前三村氏,美作三浦氏を討ち,浦上氏を滅ぼして備前,備中,美作に勢力を及ぼしたが,織田信長麾下(きか)の豊臣秀吉の中国進攻にともない秀吉に通じ毛利氏と交戦。岡山に城下町を建設した。死後,翌年まで喪を秘す。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宇喜多直家」の解説

宇喜多直家 うきた-なおいえ

1529-1581 戦国-織豊時代の武将。
享禄(きょうろく)2年生まれ。宇喜多興家の子。天文(てんぶん)12年浦上宗景につかえる。備前(岡山県)西南部に進出し,天正(てんしょう)元年岡山に城をきずく。毛利氏とむすび,5年宗景を追放。中国に侵攻してきた羽柴秀吉に敗れ帰順。毛利軍との戦いのさなか,9年2月14日病没した。53歳。通称は八郎,三郎右衛門。

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世界大百科事典(旧版)内の宇喜多直家の言及

【浦上宗景】より

…天文~元亀年間(1532‐73),尼子氏次いで毛利氏と美作・備中を舞台に覇を競った。その間,備前西半を中心に重臣宇喜多直家の勢力が伸張するに及び,1573年(天正1)足利義昭追放後の織田信長に款を通じ,播備作3国安堵の朱印を得た。その結果,宇喜多氏の離反を招き,翌年毛利氏と結んだ直家と対立,77年天神山城を攻略され,没落した。…

【岡山[市]】より

…周辺の開発は古く,弥生時代の津島遺跡のほか平地部北半に条里遺構があり,また造山(つくりやま)古墳(史),車塚古墳金蔵山(かなくらやま)古墳など大小の古墳も多く見られ,備前国府は旭川東岸の国府市場にあった。戦国時代に宇喜多直家が旭川沿いの丘陵に築城したのが都市形成の始まりで,その後,小早川氏,池田氏と交代したが,安定したのは1632年(寛永9)に池田光政が鳥取から入封して以来で,明治維新まで備前31万5000石の城下として繁栄した。廃藩置県を経て1876年に現在の岡山県域が成立すると,岡山は備前のみでなく,備中,美作を含む全域の中心となった。…

【備前国】より

… 政則の死後赤松氏が衰えると,代わって三石城を本拠とする浦上氏が台頭し,浦上村宗は主君赤松義村を幽閉暗殺して実権を握り,細川高国を擁して上洛し覇権を掌握しようとしたが,義村の子政村(のちの晴政)が三好元長に内応したことにより摂津大物(だいもつ)で敗死した。村宗の子宗景は本拠を三石城から天神山城に移したが,凡庸で家臣宇喜多直家に権力を奪われた。直家は毛利,織田両勢力の対立を利用しつつ,備中の三村氏を滅ぼし,備前を中心にその周辺地域(備中東部,美作南部,播磨西部)を支配下に収めて戦国大名として自立したが,間もなく病死し,子秀家は羽柴(豊臣)秀吉に養われて,のちに豊臣政権下の五大老のひとりとなった。…

※「宇喜多直家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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