宗氏(読み)そううじ

改訂新版 世界大百科事典 「宗氏」の意味・わかりやすい解説

宗氏 (そううじ)

鎌倉時代から明治維新まで対馬などを支配した北九州の豪族,大名。出自については平知盛後胤説,対馬との関係では1245年(寛元3)宗重尚の阿比留(あびる)氏討伐説が流布していたが,現在は両説とも後世の捏造(ねつぞう)で,出自は大宰府府官惟宗(これむね)氏の武士化したものとされる。対馬との関係で確実・最古の人物は,1274年(文永11)のモンゴル襲来時に対馬で戦死した対馬国地頭代の宗資国である。鎌倉時代は大宰少弐氏が対馬国守護・地頭を兼ね,宗氏は地頭代として支配に関係し,南北朝期に実質的な支配者となり,同末期に守護に昇格した。しかし15世紀前半までの宗氏は対馬のほか北九州一帯に所領をもち,15世紀初頭までは本拠も筑前宗像(むなかた)郡にあり,筑前国守護代も兼ねていた。1408年(応永15)に対馬上県(かみあがた)郡佐賀(さか)に本拠を移して対馬経営にあたり,43年(嘉吉3)貞盛は朝鮮と癸亥(きがい)約条(嘉吉条約)を結び,特権的地位を獲得した。しかし北九州では少弐氏を助け大内氏と戦ったが,1441年大敗し所領を失った。その後少弐氏から自立,姓を惟宗から平に改めた。16世紀中ごろには島外の朝鮮通交者の権利も集中し,朝鮮通交貿易権をほぼ独占して,戦国大名に成長した。1587年(天正15)義調(よししげ)は豊臣秀吉の九州平定後服属し,90年義智(よしとし)は朝鮮通信使来日の功により,従四位下侍従・対馬守に任ぜられ,この官位近世の例となった。義智は文禄・慶長の役回避のため努力したが,開戦後は各地に転戦,また明・朝鮮との講和画策,その功労で九州に1万石の所領を受けた。戦後は日朝国交回復に努めて1605年(慶長10)成功し,09年己酉(きゆう)約条で貿易も再開した。以後近世における朝鮮外交の実務と貿易を独占,そのため幕府も優遇し,家格も持高以上の10万石格・城主とされた。35年(寛永12)柳川一件に勝訴し,ついで義真は藩政改革を断行近世大名に脱皮した。1867年(慶応3)王政復古後も朝鮮関係の独占を許され,69年(明治2)版籍奉還後厳原(いづはら)藩(対馬藩)知藩事,71年廃藩置県で解任。後に伯爵
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宗氏」の意味・わかりやすい解説

宗氏
そううじ

鎌倉時代から明治維新期まで対馬(つしま)島を支配した北九州の豪族、大名。出自については平知盛(たいらのとももり)後胤(こういん)説、対馬との関係については宗重尚(しげひさ)の阿比留(あびる)氏討伐説が流布していたが、現在は、出自は大宰府官人(だざいふのかんにん)惟宗(これむね)氏、対馬との関係では1274年(文永11)の元寇(げんこう)で戦死した資国(すけくに)(助国とも)が最古、確実とされている。資国は対馬国地頭代(じとうだい)。鎌倉末から南北朝にかけては守護大宰少弐(だざいのしょうに)氏のもとで対馬の支配にあたり、その後守護となる。15世紀初頭に北九州から対馬に本拠を移し、ほどなく島内支配と朝鮮関係の掌握を確実なものとした。16世紀の後半には朝鮮貿易をほぼ独占。1587年(天正15)豊臣秀吉(とよとみひでよし)の九州平定に応じて服属。1591年朝鮮通信使の来日実現の功により、従四位下(じゅしいげ)侍従(じじゅう)、対馬守(つしまのかみ)に補任(ぶにん)。この官位は近世の例となった。近世では対馬藩主として義智(よしとし)から義達(よしあきら)(重正)まで16代続いた。1869年(明治2)版籍奉還後、厳原(いづはら)藩(対馬藩)知事、1871年廃藩置県により解任。のち伯爵。

[荒野泰典]


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百科事典マイペディア 「宗氏」の意味・わかりやすい解説

宗氏【そううじ】

対馬(つしま)の豪族。大宰府の府官惟宗(これむね)氏が武士化したとされる。対馬の守護・地頭少弐(しょうに)氏の地頭代として勢力を伸張。元寇(げんこう)の時,資国(すけくに)は奮戦して戦死。室町時代応永の外寇を退け,朝鮮貿易を独占する一方,島内統治を完成。義智(よしとし)の時,文禄・慶長の役に従軍。江戸時代は10万石の格式をもって遇せられた。
→関連項目厳原[町]己酉約定朝鮮通信使対馬島対馬藩

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宗氏」の意味・わかりやすい解説

宗氏
そううじ

鎌倉時代~明治の対馬の支配者。江戸時代,対馬 10万石の大名。鎌倉時代初期,在庁官人阿比留氏を討つため,宗重尚が少弐氏の命を受けて対馬に上陸したのが,宗氏の対馬支配の機縁となった。その後資国が蒙古襲来の際戦死し,当時守護代の地位にあったが,室町時代以後は事実上の対馬守護として君臨した。対朝鮮貿易においては,種々の特権を朝鮮側から与えられ,日鮮貿易の仲介者の役割を果した。応永年間 (1394~1428) 一時佐賀に根拠地を移したが,文明 18 (1486) 年貞国が厳原 (いづはら) に館を造り,以後この地に居住して金石城,棧原 (さじきばる) 城を築いた。文禄・慶長の役では小西行長に従って戦功があったが,関ヶ原の戦いでは豊臣方に加担したため所領の一部を没収された。しかし,江戸時代にも対朝鮮交渉では重要な役割を果し,対馬以外にも肥前国浜崎,田代に飛び地を保有した。明治にいたり伯爵を与えられた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「宗氏」の解説

宗氏
そうし

秦氏の一流。鎌倉~江戸時代に対馬国に勢力をもった。江戸時代の系譜では平知盛を祖とするが,対馬の在庁官人惟宗(これむね)氏が鎌倉時代に守護少弐(しょうに)氏のもとで地頭代となり,島内に勢力を築いて13世紀後半以降宗氏を称した。のち対馬国守護。文明年間(1469~87)頃までは少弐氏に従いしばしば九州北部で戦った。15~16世紀,朝鮮政府の通交貿易統制に協力し,通交貿易に独占的な地位を築いた。1587年(天正15)豊臣秀吉から対馬領有を安堵され,江戸時代には対馬国府中藩主。対馬一円および肥前国内での分領を知行(約3万石)し,元禄年間以降10万石以上の格式を称し,1817年(文化14)2万石加増。朝鮮貿易も独占した。維新後伯爵。

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旺文社日本史事典 三訂版 「宗氏」の解説

宗氏
そうし

中世〜近世の対馬の領主
対馬守護少弐氏の守護代となり,文永の役で助国・盛明父子が戦死。南北朝時代以来,日朝貿易に活躍。室町時代,筑前守護代として応永の外寇を退け,三浦 (さんぽ) の乱に際し救援軍を派遣,豊臣秀吉の文禄・慶長の役には先鋒となって活躍した。江戸時代には朝鮮信使の接待役として10万石格の待遇をうけ,毎年定期的に朝鮮の釜山浦で貿易を行った。

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世界大百科事典(旧版)内の宗氏の言及

【己酉約条】より

…同年が己酉の年に当たるのでこの名があり,己酉条約,慶長条約ともいう。全13ヵ条で,宗氏への米・大豆の賜給,日本からの使節の接待法,宗氏の歳遣船数などを細かく規定。通交方法・条文の構成などは中世以来のものを踏襲しているが,内容は文禄・慶長の役の影響で,通交者を日本国王(徳川将軍),対馬島主(宗氏),対馬島受職人(対馬の朝鮮官職を授けられた者)に限り,歳遣船数を20隻に減らす(戦前は30隻)など,対馬にとって不利となった。…

【石高制】より

…このように,石高の決定には,大名が豊臣政権に服属する際の条件や,領内の特殊事情などが介在した事実もある。また,対馬(宗氏)や松前(蠣崎氏)のように,朝鮮貿易や蝦夷地交易を公認され,貿易利潤によって財政を成り立たせている大名には,その本領地の石高は無高とし,家格を表示する石高を与えることでランク付けをしている。これは,土地生産力に基礎をおかない貿易利潤と石高制との矛盾を解消し,秀吉の軍役体系に包摂するためにとられた方策である。…

【歳遣船】より

…43年(嘉吉3∥世宗25)の嘉吉条約では,対馬島主の歳遣船は50隻,やむをえぬ報告を必要とする事件が起きたときは規定外に特送船を渡航させることができると規定された。親日政策をとった世宗の末年から歳遣船の定約者は日本の各地に広がり,71年(文明3∥成宗2)申叔舟(しんしゆくしゆう)の撰した《海東諸国紀》では,宗氏の50隻のほかに宗氏一族の7隻,4隻,3隻などを特例とし,一般通交者で毎年1隻か2隻をみとめられたもの14名,1隻だけみとめられたもの27名が記されている。成宗の時代になると,歳遣船往来者の名義詐称を防ぐために,すべての定約者は同時に受図書人にするように定められた。…

【参勤交代】より

…42年には,従来在府中の譜代大名に6月または8月の交代,関東の譜代大名に2月,8月の半年交代,さらに城邑を占める大名には交互の参勤を命じ,ここに参勤交代制は全大名に一般化されるに至った。もっとも,対馬の宗氏は3年1勤,蝦夷地の松前氏は5年1勤,水戸徳川家や役付の大名は定府(じようふ)とするなど,若干の例外もみられる。その翌年には,将軍への大名の拝謁順序が定められ,86年(貞享3)以降は,表礼衆,那須衆,美濃衆,三河衆など旗本30余家にも隔年参勤が義務づけられた(交代寄合)。…

【大名】より

… (1)国主大名とは1ヵ国以上の国を領有する大名,1国に近い土地を領有するか,もしくは領地高が多い大名をいい,家数は時代によって変遷するが,おおむね幕末では次のとおりである。前田氏(加賀・能登等102万石余を領し金沢に住する),島津氏(薩摩・大隅等77万石余,鹿児島),黒田氏(筑前52万石,福岡),浅野氏(安芸等42万石余,広島),毛利氏(周防・長門36万石余,萩,幕末に山口へ移る),池田氏(因幡・伯耆32万石,鳥取),池田氏(備前等31万石余,岡山),蜂須賀氏(阿波・淡路25万石余,徳島),山内氏(土佐24万石,高知),宗氏(対馬10万石格,府中)の10家が1国以上を領有する大名としてあげられる。宗氏は1万石余であるが対馬1国を領有するし,朝鮮との外交関係があったので10万石格の国主の扱いを受けた。…

【筑前国】より

…また当国には幕府奉公衆麻生氏がおり,幕府権力の地方的基盤となっていたが,しだいに大内氏と結びつきを深め,戦国期には大内氏の被官化する。
[戦国時代]
 1467年(応仁1)応仁・文明の乱がおこると,対馬宗氏のもとにいた少弐教頼は東軍に応じ,宗盛直とともに筑前に攻め入ったが,大内氏のために敗死した。69年(文明1)になると東軍の策動によって北部九州の諸豪族が反大内勢力となり,九州から大内勢力を排除した。…

【対馬島】より

…【倉住 靖彦】
【中世】
 平安末から13世紀中ごろまで対馬で勢力があったのは在庁官人阿比留(あびる)氏で,その出自は明らかでないが,9世紀後半に入島定着したと推定されている。13世紀後半からこれにかわって宗氏が台頭した。対馬と宗氏の関係について,1245年(寛元3)大宰府に従わない阿比留氏を宗重尚が追討し,ついで地頭代となったとする説が流布していたが,現在では後世の説話とされている。…

【対馬藩】より

…対馬国(長崎県)下県(しもあがた)郡与良(よら)郷府中に藩庁を置いた外様藩。藩主は宗氏,中世以来の守護大名から近世大名に転化した数少ない例。鎖国下の近世日本が正式な外交関係をもった唯一の独立国朝鮮との外交貿易を独占的に担った。…

【図書・文引】より

…文引は,従来貿易船に必要とされていた渡航証(行状(こうじよう))の携行を使船にまで適用したもので,路引(ろいん),吹噓(すいこ)とも称する。対馬島主宗氏が朝鮮側の了解のもとで発行権を握り,1436年(永享8)以降制度として定着した。当初は,対馬島内の渡航者を対象としていたが,やがて島外にも適用され,受図書人も特殊な者を除いて文引帯行を義務づけられる。…

【日朝貿易】より

…そこで足利氏は,しばしば五山の僧を朝鮮に派遣し,朝鮮からは足利義政時代までに数回の通信使(朝鮮通信使)来日があり,両国の友好を深めていった。また管領や鎮西探題,中国の大内氏,九州の少弐・大友・菊池・島津の諸氏,対馬島の宗氏,その他各地方の豪族や倭寇の首領等で,朝鮮から官職を与えられた者(受職人(じゆしよくにん))などに至るまで独自に使者を派遣し,朝鮮との交流を行った。朝鮮では,これら日本からの使者を客倭と称し,単独に貿易だけを目的とする者(商倭,または興利倭人)と区別して取り扱い,米,豆などの食糧贈給に応じたり,格によっては上京を許して厚く接待するなどの優遇策をとった。…

【肥前国】より

…16世紀末の文禄・慶長の役のおりに波多氏は改易になり,その領地は寺沢広高に宛行(あてが)われた。また1599年(慶長4)対馬の宗氏は薩摩出水郡に領していた1万石の替地として肥前国内の基肄一郡と養父半郡を領有するようになり(田代(たじろ)領),以後明治初年まで同地を統治した。竜造寺氏領ではしだいに実権を掌握した鍋島氏が実質的な統轄者になり,1607年には鍋島勝茂に統治権が認められて,名実ともに鍋島体制になった。…

※「宗氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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