対馬島(読み)つしまじま

日本歴史地名大系 「対馬島」の解説

対馬島
つしまじま

九州島と朝鮮半島の間にある島。南北約八二キロ・東西約一八キロで、面積六九七・一〇七平方キロ。北西部の上県かみあがた佐須奈さすな港から釜山まで五〇キロ余、北部の上対馬町比田勝ひたかつ港から福岡県北九州市小倉こくら港まで一六一キロ、南部の厳原いづはら港から壱岐島のごううら港まで七三キロ、福岡県博多港まで一四七キロ。中央部の浅茅あそう(浅海)より万関まんぜき瀬戸までを境に南北に分け、上対馬・下対馬とも通称する。北部に(四七九メートル)鳴滝なるたき(三四二・一メートル)高野こうや(三五一・二メートル)など、南部に有明ありあけ(五五八・二メートル)矢立やたて(六四八・五メートル)舞石めえしだん(五三六・四メートル)竜良たてら(五五八・五メートル)木槲もくこく(五一五・四メートル)などがあり、これらに標高一〇〇―三〇〇メートルほどの山地が連なり、細い谷が無数に刻まれて海岸まで迫っている。佐護さご川・仁田にた川・三根みね川・佐須さす川など島内のおもな河川は西海岸に注ぐものが多く、これらの流域に平野部が形成されるが、島の八割余は山林で占められる。海岸部は断崖が続くが、リアス海岸により入江に恵まれる。壱岐対馬国定公園のうち。

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改訂新版 世界大百科事典 「対馬島」の意味・わかりやすい解説

対馬島 (つしまのしま)

旧国名対州。長崎県北部の島。

西海道に属する下国(《延喜式》)。《古事記》には〈津島〉と見え,いわゆる大八洲の一つとされた。九州と朝鮮半島の中間に位置し,古くから壱岐島とともに大陸との交通の要衝として重視された。《魏志倭人伝》には,1000余戸あるが,地勢が険しくて良田がないため南北に交易して米を求めたとある。663年(天智2)の朝鮮半島白村江での敗戦後は国防の最前線となり,翌年に防人(さきもり),烽(とぶひ)が配備され,667年には金田(かなだ)城が築かれたが,のち1019年(寛仁3)の刀伊(とい)の入寇では大被害を受けた。古くは対馬国と称され,律令制の成立とともに上県・下県2郡を管する対馬島として国に準ずる扱いを受けた。国府・国分寺は現在の対馬市の旧厳原(いづはら)町にあった。674年(天武3)の貢上以来,銀が特産物であり,《延喜式》でも調として貢納が義務づけられた。701年には金を貢上し,大宝の年号が建元されたが,この冶金は虚偽であったともいう。小国ながら大小29座の延喜式内社が存したことも特徴的である。
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平安末から13世紀中ごろまで対馬で勢力があったのは在庁官人阿比留(あびる)氏で,その出自は明らかでないが,9世紀後半に入島定着したと推定されている。13世紀後半からこれにかわって宗氏が台頭した。対馬と宗氏の関係について,1245年(寛元3)大宰府に従わない阿比留氏を宗重尚が追討し,ついで地頭代となったとする説が流布していたが,現在では後世の説話とされている。しかし74年(文永11)宗資国がモンゴル襲来のため対馬で戦死したこと,彼が対馬国地頭代だったことには明証がある。このころすでに宗氏は,対馬国守護兼地頭であった大宰少弐氏のもとで対馬支配に関係していた。その後南北朝の内乱に乗じて宗氏は実質的な支配権を手中にし,末期には守護に昇格した。

 この時期は日本・高麗間に国交はなかったが,1019年刀伊の入寇を契機に,九州や壱岐,対馬から貿易船が通うようになった。モンゴル襲来後この貿易は断絶,さらに高麗の弱体化と南北朝内乱などの原因が重なり,1350年(正平5・観応1)以後,大規模な倭寇が高麗沿岸から中国遼東半島を襲った。倭寇は対馬,壱岐,松浦地方の住民が主体で,対馬を根拠地にして,米豆などの食糧と住民を略奪した。高麗は室町幕府や九州探題などの実力者に倭寇禁圧を要請し,また通交貿易を許し投降帰化を奨励するなど倭寇懐柔策をとり,一方倭寇の根拠地を掃討するため89年(元中6・康応1)対馬に入寇した。これらの政策は李氏朝鮮も継承し,特に倭寇懐柔策は効果的で,倭寇は減少し,通交貿易者や投降者が激増した。15世紀に入ると,朝鮮は日本人の渡航先を釜山浦・薺浦・塩浦(三浦(さんぽ))に限るなど,さまざまな統制策をとった。宗氏が朝鮮関係に本格的に登場するのは宗貞茂からで,貞茂は朝鮮に頻繁に使を派し,1408年(応永15)対馬に本拠を移して島内統治と倭寇禁圧に努めた。貞茂没後朝鮮は倭寇再発を危惧し,19年対馬征討の軍を起こした(応永の外寇)が,その後は宗氏を優遇,倭寇禁圧と通交貿易統制に利用する政策をとった。当時対馬には82の浦に8000戸余りの住民がおり,朝鮮や九州との交易,漁業,製塩などを営み,浦々には宗氏の庶流や早田(そうだ)氏など古くからの土豪が勢力をはっていた。宗氏は朝鮮の通交貿易統制策に協力しながら,43年(嘉吉3)癸亥(きがい)約条(嘉吉条約)で特権的地位を確保し,庶流や土豪層の朝鮮との通交貿易をはじめおもな生計の手段を統制下に置いて課税し,知行としてあてがうことで支配を浸透させていった。こうして15世紀後半の貞国のときに宗氏の支配はほぼ確立した。一方,北九州では少弐氏を助けて大内氏と戦ったが,1441年に大敗して所領を奪われ,貞国のときに少弐氏とも決別して,独自に戦国大名化の道を歩むことになった。

 16世紀に入ると,朝鮮の通交貿易制限の方針と対馬の貿易拡大要求の間で矛盾が激化し,1510年(永正7)三浦の日本人住民の反乱(三浦の乱)が起こった。乱後通交貿易は著しく制限され,宗氏は権益回復に努めるとともに,島外の通交貿易者の権益も集中して,16世紀後半には対朝鮮外交・貿易関係をほぼ独占した。しかし28年(享禄1)には宗盛治の乱が起こるなど宗氏の権力は必ずしも安定せず,ついで壱岐に進出した松浦氏との対立が始まり,86年(天正14)豊臣秀吉の九州出兵の報に接するまで続いた。

1587年秀吉に服属した後,宗義智(よしとし)は朝鮮外交に奔走した。文禄・慶長の役には全島を挙げて動員されたほか,朝鮮貿易を断たれ,対馬は疲弊した。1605年(慶長10)江戸幕府の下での講和成立後,宗氏は朝鮮外交の実務と貿易の独占を許され,09年己酉(きゆう)約条後通交貿易は再開した。しかし通交貿易の制限は戦前以上に厳しく,宗氏は規定外にさまざまな名目で使船を派遣し,貿易拡大を図った。唯一の開港場とされた釜山には頻繁に対馬船が渡航し,倭館には数百人の家臣・商人などが常駐した。35年(寛永12)以後日朝外交の体制が整備し,府中以酊庵(いていあん)に京都五山僧が輪番で赴任し外交文書を管掌する(以酊庵輪番制)など,幕府の統制も強化された。

 また,家臣団の城下集住と大火を契機に城下町(府中)も整備し,藩政機構も整えられた。さらに,銀山の再開発,大船越の開削に成功し,また抜荷対策で鰐浦など4ヵ所に番所を,島内16ヵ所に遠見番を置いた。17世紀後半には貿易と銀山の隆盛から藩は極盛期を迎え,雨森芳洲(あめのもりほうしゆう),松浦霞沼陶山鈍翁(すやまどんおう)などの人材も輩出し,近世の対馬学統の基礎となった。しかし在地では在郷給人(郷士)が領知の半ば以上を占め,被官・下人などを使役して家父長制的経営を展開し,他藩の村役人に当たる役職も独占しており,農民は零細な経営規模と過重な夫役負担のため自立性が弱く,中世以来の構造が強く残された。18世紀には貿易と銀山の不況から,藩財政は窮乏した。幕末には欧米列強のアジア進出とともに対馬の戦略的重要性が増し,1861年(文久1)にはロシア軍艦の芋崎占拠事件(ロシア軍艦対馬占領事件)も起こった。71年(明治4)廃藩後72年長崎県に移管された。
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百科事典マイペディア 「対馬島」の意味・わかりやすい解説

対馬島【つしまのしま】

旧国名。対州とも。西海道に属する。現在の長崎県対馬。《魏志倭人伝》に〈対馬国〉とみえ,古くから朝鮮航路の要地。国司代りに島司を置き,防人(さきもり)を配備。《延喜式》に下国,2郡。13世紀中ごろ,宗(そう)氏が渡って守護代,次いで守護。近世,同氏が対馬藩主として領有。→対馬事件
→関連項目九州地方朝鮮式山城対馬長崎[県]

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デジタル大辞泉プラス 「対馬島」の解説

対馬島

九州、福岡の中心部から北西125キロメートルの日本海、対馬海峡に浮かぶ島。長崎県対馬市に属する。韓国まで直線距離で49.5キロメートルに位置する国境の島で、面積は約696.48平方キロメートルと国内有数の大きさ。朝鮮半島との中継点として古くから重要な島で、島内の遺跡からは九州と朝鮮半島の遺物が出土するなど、歴史・民俗学的に貴重な資料を多く有するほか、国指定天然記念物のツシマヤマネコなど、希少な動植物が多数生息する。

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世界大百科事典(旧版)内の対馬島の言及

【銀】より

…銀本位制を採用しつづけた東洋諸国も銀価下落の影響を受け,なかでも中国から銀が激しくアメリカに流出したのが問題化し,ここに中国もまた1933年ついに両を廃して元を採用し,35年元を金に結びつけ,イギリスの借款を得て金為替本位制に移ることを余儀なくされるに至った。貨幣【新庄 博】
【日本の銀の歴史】
 《日本書紀》674年(天武3)対馬島貢銀の記載が文献上の産銀の初見である。対馬の銀坑は長崎県下県郡厳原町樫根の地といわれるが,ここが古代から中世までほとんど唯一の銀山である。…

【宗氏】より

…鎌倉時代から明治維新まで対馬などを支配した北九州の豪族,大名。出自については平知盛後胤説,対馬との関係では1245年(寛元3)宗重尚の阿比留(あびる)氏討伐説が流布していたが,現在は両説とも後世の捏造(ねつぞう)で,出自は大宰府府官惟宗(これむね)氏の武士化したものとされる。対馬との関係で確実・最古の人物は,1274年(文永11)のモンゴル襲来時に対馬で戦死した対馬国地頭代の宗資国である。鎌倉時代は大宰少弐氏が対馬国守護・地頭を兼ね,宗氏は地頭代として支配に関係し,南北朝期に実質的な支配者となり,同末期に守護に昇格した。…

【対馬】より

…長崎県に属し,上県(かみあがた)郡の3町(上対馬,上県,峰)と下県郡の3町(豊玉,美津島(みつしま),厳原(いづはら))に分かれる。かつての対馬島(つしまのしま)にあたり,九州とは対馬海峡東水道,朝鮮半島とは同西水道によって隔てられ,大陸と日本との交通の要衝としての役割を果たしてきた。長崎県の対馬支庁が厳原町にあるが,日常生活の面ではむしろ福岡県との関係が強い。…

※「対馬島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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