日本大百科全書(ニッポニカ) 「柳川一件」の意味・わかりやすい解説
柳川一件
やながわいっけん
対馬(つしま)藩主宗義成(そうよしなり)とその重臣柳川調興(しげおき)の争論が発端で、宗氏(柳川氏)の日朝両国国書の改竄(かいざん)などの不正が露顕し、近世初期の日朝関係最大の問題となった事件。柳川氏は調興の祖父調信(しげのぶ)一代で家臣の筆頭にまでのし上がった存在で、調興の代には朝鮮関係から宗氏の家政まで擅断(せんだん)するようになっていた。また、調興は人質として幼少から徳川家康・秀忠(ひでただ)の膝元(ひざもと)に置かれており、幕府要路に強力な人脈をもっていた。義成と調興の確執は、調興がそのような地位を足場に幕臣化しようとした点に発しており、1615年(元和1)に義成が家督を継いでほどなくその兆しがみられ、31年(寛永8)に双方が幕府に訴えたことから争論となった。その際明らかになった日朝関係上の不正には、それまでの朝鮮使節来日の際の国書の改竄・取り替え、国王使(将軍使)を詐称しての使節の朝鮮派遣などがあるが、これらは宗氏あるいは柳川氏の罪というよりは、中世以来の日朝関係の諸慣例を放置していた幕府の姿勢に起因したものである。
争論は当初調興の有利が噂(うわさ)されたが、1635年将軍家光(いえみつ)の親裁によって義成の無罪、調興らの有罪が決定した(調興は津軽に流罪、そのほかにも死刑・流罪)。この裁定には、義成室が日野資勝(ひのすけかつ)娘で家光室の鷹司(たかつかさ)氏と親類にあたることが影響しているといわれるが、それだけではなく、当時の幕府の対外政策、大名統制策の基本路線に沿ったものであった。一件後、将軍の国際的称号を日本国大君(にっぽんこくたいくん)とし、外交文書に日本年号を使用すること、対馬以酊庵(いていあん)へ京都五山(ござん)の長老を輪番で派遣して外交文書を管掌させる以酊庵輪番制の設定など、日朝関係上の諸体制が整備された。
[荒野泰典]
『荒野泰典著『大君外交体制の確立』(『講座日本近世史2 鎖国』所収・1981・有斐閣)』▽『田代和生著『書き替えられた国書』(中公新書)』