(井上寛司)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
室町後期の戦国大名。出雲(いずも)守護代尼子清定(きよさだ)の嫡子。1478年(文明10)ごろ父にかわって守護代に補任(ぶにん)されると、寺社領の押領、段銭徴収の緩怠(けたい)、美保関(みほのせき)公用銭の未進など、公然と守護の支配に抗して戦国大名への道を指向したので、1484年(文明16)守護京極政経(きょうごくまさつね)によって守護代職を罷免(ひめん)され、富田月山(とだがっさん)城(島根県安来(やすぎ)市)を追われた。しかし、2年後富田城を奪回、守護を放逐し、近隣の国人を制圧して戦国大名として独立。大内義興(よしおき)が足利義稙(あしかがよしたね)を奉じて上京すると、その間隙(かんげき)を縫って中国地方に進出して版図(はんと)を広げ、大永(たいえい)年間(1521~1528)尼子氏の最盛期を築いた。天文(てんぶん)10年11月13日、84歳で富田城内に没した。
[藤岡大拙]
戦国時代の武将。民部少輔,のち伊予守。父清定を継ぎ出雲守護代。段銭を押領し一時追放されたが,1486年(文明18)守護京極政経の上洛後,事実上出雲の支配権を握った。山陰,山陽に兵を動かし勢力は11ヵ国に及んだといわれ,尼子氏の最盛期を築いた。安芸で大内氏と戦い,1525年(大永5)配下の毛利元就が大内氏に属したのちは毛利氏とも戦う。子政久陣没のため37年隠退後も孫晴久を後見した。
執筆者:加藤 益幹
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…乱後武田氏では元綱の子元繁が金山城主となり,99年(明応8)温科国親の反を平らげ,1507年(永正4)義稙を奉じて上洛する大内義興に従ったが,15年帰国するとかえって己斐城等を攻め,17年山県郡有田に出陣して敗死した。すでに12年有力国衆9人は一揆契状を結び国許の不安に対処しようとしたが,山陰の尼子経久が16年帰国して南下を企て,20年ころから芸備の諸豪族を服属させ,23年(大永3)には東西条の鏡山城を占拠し,またその後援により友田興藤が桜尾城に入り厳島神主となった。これに対し大内義興も18年に帰国,23年から芸備に進出し翌年桜尾城を陥れ,毛利氏も大内方となって武田氏は孤立した。…
…旧国名。雲州。現在の島根県の東部にあたる。
【古代】
山陰道に属する上国(《延喜式》)。当初の地域的統一は,簸(ひ)ノ川(斐伊(ひい)川)・神門(戸)(かんど)川下流域に諸首長が併立した出雲西部よりも,意宇(おう)平野の首長が卓越的に台頭した出雲東部を中心にすすんだ。すなわち,東部には4世紀末から5世紀の方墳や前方後方墳が濃密な分布を示す特色ある古墳文化が発達し,《出雲国風土記》にだけみえる国引き神話もここではぐくまれた。…
…伯耆における戦国の争乱は,1480年(文明12)から翌年にかけて展開された山名政之と元之との山名氏一族内部の対立をその端緒とするが,隣国雲州尼子氏の圧迫を受けて,その様相はいっそう複雑となった。1524年(大永4)尼子経久は大挙して伯耆に進入し,たちまちのうちに伯耆一円を制圧した。この〈大永の五月崩れ〉により,倉吉打吹城と山名澄之や北条堤城の山田氏をはじめ南条氏,小鴨氏,行松氏など伯耆の国人・土豪層はそのほとんどが没落し,本貫地を離れて各地に流浪した。…
※「尼子経久」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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