尼子経久(読み)アマコツネヒサ

デジタル大辞泉 「尼子経久」の意味・読み・例文・類語

あまこ‐つねひさ【尼子経久】

[1458~1541]戦国時代武将出雲守護代であったが、室町幕府軍に追われ、のち山陰各地を攻略して、大内氏毛利氏対立

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精選版 日本国語大辞典 「尼子経久」の意味・読み・例文・類語

あまこ‐つねひさ【尼子経久】

  1. 戦国大名清定の子。出雲・隠岐の守護代。永正五年(一五〇八)、大内義興と共に前将軍足利義尹を奉じて上洛するが、のち義興と対立して将軍足利義澄と結び、山名氏の跡をうけて、安芸より因幡に至る山陰・山陽諸国を攻略、大内氏・毛利氏と対抗した。長祿二~天文一〇年(一四五八‐一五四一

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朝日日本歴史人物事典 「尼子経久」の解説

尼子経久

没年:天文10.11.13(1541.11.30)
生年:長禄2.11.20(1458.12.25)
戦国時代の武将。京極氏の出雲・隠岐両国守護代清定の子。母は馬木上野介の娘。はじめ又四郎。民部少輔,伊予守を称す。文明16(1484)年,寺社本所領段銭などを押領して室町幕府から追放されたが,まもなく勢力を回復。以後急速に戦国大名への地歩を固めていった。そのひとつの契機となったのは,永正5(1508)年守護京極政経が,後事を託して出雲に没したこと。これにより経久は,正当な守護職権の継承者として領国支配を有利に展開することが可能となった。翌6年,それまで自立性の強い国人層の地域的結集の拠点であった,鰐淵寺を強力に統制する掟書を定め,寺院建築様式に基づく一宮杵築大社の造営にも着手。これらを通じて国人層および一宮の掌握に努めた。また守護京極氏の家臣団をそのまま継承し,これを直臣団(富田衆)中心に編成し直すことによって強力な奉行人制を早期に実現し得たことも領国支配の安定につながった。 戦国大名へと飛躍することになったいまひとつの契機は,出雲西部に大きな勢力を誇っていた伝統的豪族塩冶氏を,同15年以前に3男興久を送り込むことによって掌握し,さらには天文1(1532)年の塩冶興久の乱を機にこれを討滅して,出雲全域におよぶ領国支配権を確立したことである。これより先,永正10年以前から伯耆国守護山名澄之,同14年には前石見国守護山名氏への助力を口実に,それぞれ伯耆西部,石見東部に版図を拡大。また同14年から,備後をはじめとする山陽方面に軍勢を進め,国人層の掌握を通してこの方面への影響力を拡大,「十一カ国太守」とも称された。しかし,大永2(1522)年には大内氏と安芸で戦い,また同5年,配下毛利元就が大内氏に属したのちは毛利氏とも戦いを交えることとなった。天文6年に隠退して以降は孫詮久(晴久)を後見。詮久が毛利氏を安芸に攻めて大敗北を喫した同10年,富田城に没した。<参考文献>米原正義『尼子経久―風雲月山城―』

(井上寛司)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「尼子経久」の意味・わかりやすい解説

尼子経久
あまごつねひさ
(1458―1541)

室町後期の戦国大名。出雲(いずも)守護代尼子清定(きよさだ)の嫡子。1478年(文明10)ごろ父にかわって守護代に補任(ぶにん)されると、寺社領の押領、段銭徴収の緩怠(けたい)、美保関(みほのせき)公用銭の未進など、公然と守護の支配に抗して戦国大名への道を指向したので、1484年(文明16)守護京極政経(きょうごくまさつね)によって守護代職を罷免(ひめん)され、富田月山(とだがっさん)城(島根県安来(やすぎ)市)を追われた。しかし、2年後富田城を奪回、守護を放逐し、近隣の国人を制圧して戦国大名として独立。大内義興(よしおき)が足利義稙(あしかがよしたね)を奉じて上京すると、その間隙(かんげき)を縫って中国地方に進出して版図(はんと)を広げ、大永(たいえい)年間(1521~1528)尼子氏の最盛期を築いた。天文(てんぶん)10年11月13日、84歳で富田城内に没した。

[藤岡大拙]


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改訂新版 世界大百科事典 「尼子経久」の意味・わかりやすい解説

尼子経久 (あまこつねひさ)
生没年:1458-1541(長禄2-天文10)

戦国時代の武将。民部少輔,のち伊予守。父清定を継ぎ出雲守護代。段銭を押領し一時追放されたが,1486年(文明18)守護京極政経の上洛後,事実上出雲の支配権を握った。山陰,山陽に兵を動かし勢力は11ヵ国に及んだといわれ,尼子氏の最盛期を築いた。安芸で大内氏と戦い,1525年(大永5)配下の毛利元就が大内氏に属したのちは毛利氏とも戦う。子政久陣没のため37年隠退後も孫晴久を後見した。
執筆者:

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「尼子経久」の解説

尼子経久 あまこ-つねひさ

1458-1541 室町-戦国時代の武将。
長禄(ちょうろく)2年11月20日生まれ。父尼子清定の跡をつぎ出雲(いずも)(島根県)の守護代となったが,寺社本所領,段銭(たんせん)(税)などを押領したため,職を解かれた。守護京極政経(まさつね)の死後は隠岐(おき),石見(いわみ),伯耆(ほうき),安芸(あき),備中(びっちゅう),備後(びんご)など11ヵ国の太守と称される戦国大名となる。天文(てんぶん)10年11月13日死去。84歳。初名は又四郎。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「尼子経久」の意味・わかりやすい解説

尼子経久
あまこつねひさ

[生]長禄2(1458)
[没]天文10(1541).11.13. 出雲,富田
戦国大名。出雲守護代清定の子。初め守護代,一時流浪したが,のち富田城主となって毛利元就と対抗し,山陰に勢力を伸長した。

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367日誕生日大事典 「尼子経久」の解説

尼子経久 (あまこつねひさ)

生年月日:1458年11月20日
戦国時代の出雲の武将
1541年没

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世界大百科事典(旧版)内の尼子経久の言及

【安芸国】より

…乱後武田氏では元綱の子元繁が金山城主となり,99年(明応8)温科国親の反を平らげ,1507年(永正4)義稙を奉じて上洛する大内義興に従ったが,15年帰国するとかえって己斐城等を攻め,17年山県郡有田に出陣して敗死した。すでに12年有力国衆9人は一揆契状を結び国許の不安に対処しようとしたが,山陰の尼子経久が16年帰国して南下を企て,20年ころから芸備の諸豪族を服属させ,23年(大永3)には東西条の鏡山城を占拠し,またその後援により友田興藤が桜尾城に入り厳島神主となった。これに対し大内義興も18年に帰国,23年から芸備に進出し翌年桜尾城を陥れ,毛利氏も大内方となって武田氏は孤立した。…

【出雲国】より

…旧国名。雲州。現在の島根県の東部にあたる。
【古代】
 山陰道に属する上国(《延喜式》)。当初の地域的統一は,簸(ひ)ノ川(斐伊(ひい)川)・神門(戸)(かんど)川下流域に諸首長が併立した出雲西部よりも,意宇(おう)平野の首長が卓越的に台頭した出雲東部を中心にすすんだ。すなわち,東部には4世紀末から5世紀の方墳や前方後方墳が濃密な分布を示す特色ある古墳文化が発達し,《出雲国風土記》にだけみえる国引き神話もここではぐくまれた。…

【伯耆国】より

…伯耆における戦国の争乱は,1480年(文明12)から翌年にかけて展開された山名政之と元之との山名氏一族内部の対立をその端緒とするが,隣国雲州尼子氏の圧迫を受けて,その様相はいっそう複雑となった。1524年(大永4)尼子経久は大挙して伯耆に進入し,たちまちのうちに伯耆一円を制圧した。この〈大永の五月崩れ〉により,倉吉打吹城と山名澄之や北条堤城の山田氏をはじめ南条氏,小鴨氏,行松氏など伯耆の国人・土豪層はそのほとんどが没落し,本貫地を離れて各地に流浪した。…

※「尼子経久」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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