鎌倉期~江戸初期の城。島根県安来(やすぎ)市広瀬(ひろせ)町富田(とだ)にあり、富田城ともよばれ、富田月山城、月山富田城などともいう。城は平安末期、藤原景清(かげきよ)によって築かれたともいわれるが伝承の域を出ない。鎌倉期出雲(いずも)守護として入った佐々木義清(よしきよ)が築き、佐々木氏が大迫(おおさこ)城を本拠とするようになってからは、守護代の尼子(あまご)氏が守っていた。尼子氏の入城は、応永(おうえい)年間で、持久(もちひさ)のときといわれている。尼子氏は経久(つねひさ)のとき佐々木京極(きょうごく)氏を追放し、その孫の晴久(はるひさ)の代には出雲を中心とする山陰11か国を領する戦国大名に成長した。1565年(永禄8)から翌年にかけて、3万5000余の毛利元就(もうりもとなり)の大軍に攻められ落城し尼子氏は滅亡した。のち毛利氏の城代(じょうだい)が入ったが、関ヶ原の戦いののち、堀尾吉晴(ほりおよしはる)が入城した。しかし、吉晴は新しく松江城を築いて移転し、そのため廃城となった。1960年(昭和35)城の麓(ふもと)を流れる富田川の砂防堰堤(えんてい)工事のとき、現在の富田川河床から戦国期の城下町の一部が掘り出された。
[小和田哲男]
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島根県能義郡広瀬町(現,安来市)の月山に築かれた中世の山城。富田(とだ)城ともいい,戦国大名尼子氏の居城であった。平安時代末に悪七兵衛景清が築いた城という伝承があるが,南北朝時代には出雲国守護山名氏のもとで勢力のあった佐々木富田氏の居城であったと考えられる。室町時代以降は,守護京極氏の守護代として近江国より入国し,のちに戦国大名となった尼子氏の居城となったため,この城は山陰の中心的な城としての地位を占めることになった。尼子氏は1566年(永禄9)に毛利氏の包囲攻撃をうけて滅び,4年後の尼子勝久,山中鹿之介(幸盛)らの月山城奪回も失敗する。毛利氏は毛利元秋や吉川広家などを城主として山陰支配をおこなった。城下の飯梨川(旧名富田川)からは尼子氏代より1666年(寛文6)水没までの城下町遺跡が発見されており,この富田川河床遺跡には掘立柱の町並みの遺構など,中・近世の町並みを示す貴重な遺跡が含まれている。
執筆者:松浦 義則
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