デジタル大辞泉
「後藤又兵衛」の意味・読み・例文・類語
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ごとう‐またべえ【後藤又兵衛】
- 安土桃山・江戸初期の武将。本名、基次。播磨別所氏の家臣基国の子。黒田孝高・長政に仕え、九州征伐、文祿・慶長の役、関ケ原の戦いに功をたてて、大隈城一万六千石を領する。のち浪人となり、大坂夏の陣に豊臣秀頼の招きをうけて奮戦し、討死。永祿三~元和元年(一五六〇‐一六一五)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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後藤又兵衛
没年:元和1.5.6(1615.6.2)
生年:永禄3(1560)
戦国末・江戸前期の武将。名は基次,通称は隠岐守。播磨国の在地領主別所氏の家臣後藤新左衛門の子。黒田孝高,長政父子に仕え,文禄1(1592)年の豊臣秀吉の朝鮮出兵や慶長5(1600)年の関ケ原の戦に際しては長政に従って出陣。関ケ原の戦の行賞で長政が筑前に移封されるや,基次も1万6000石の知行を給されたが,のち長政と不和となり謀反の嫌疑をかけられ牢人となる。19年の大坂冬の陣では豊臣秀頼に招かれて大坂城に入り,籠城軍の大将として活躍したが,翌年夏の陣に河内道明寺で戦死した。<参考文献>綿谷雪『武蔵・又兵衛』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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後藤又兵衛 ごとう-またべえ
1560-1615 織豊-江戸時代前期の武将。
永禄(えいろく)3年生まれ。後藤基国の子。黒田孝高(よしたか)・長政につかえる。豊臣秀吉の九州攻めや朝鮮出兵,また関ケ原の戦いで活躍したが,のち長政と不和になり各地を流浪。慶長19年豊臣秀頼(ひでより)にまねかれて大坂城にはいり,大坂夏の陣で20年5月6日戦死した。56歳。名は基次。
【格言など】此節に臨みて心替り到さんことは,武士の本意にあらず(徳川家康からのさそいに対する返事)
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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後藤又兵衛
ごとうまたべえ
歌舞伎・浄瑠璃の外題。- 作者
- 松居松葉
- 初演
- 明治37.1(東京・明治座)
出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の後藤又兵衛の言及
【後藤基次】より
…【加藤 真理子】
[伝承と作品化]
徳川治政下では,幕府成立事情に関する出版・上演などは禁じられていたが,《難波(なにわ)戦記》《大坂軍記》([大坂軍記物])などの実録本や講釈などで,非公然に享受されていた。後藤又兵衛の大坂城入りやその奮戦ぶりは,私利に動かぬ豪快な行為として江戸期庶民の目に映じ,さまざまに尾ひれがついて快男子又兵衛像にふくらんだ。朝鮮の役でトラ退治のおり,いわゆる〈日本号の槍〉を代償に母里(もり)太兵衛の命を救った話や,黒田家から奉公構いを受けた際の言動などは,多く講釈による虚構と見られる。…
※「後藤又兵衛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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