新庄藩(読み)しんじょうはん

藩名・旧国名がわかる事典 「新庄藩」の解説

しんじょうはん【新庄藩】

江戸時代出羽(でわ)国最上(もがみ)郡新庄(現、山形県新庄市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は明倫堂(めいりんどう)。山形県の大半を領有していた最上(もがみ)氏が1622年(元和(げんな)8)に改易(かいえき)され、常陸(ひたち)国松岡藩(水戸藩支藩)の戸沢政盛(とざわまさもり)が6万石で入封(にゅうほう)(のち6万8200石)、新庄藩が成立した。以後明治維新まで戸沢氏11代が続いた。初めは真室(まむろ)城に入ったが、25年(寛永(かんえい)2)に整備した新庄城に入った。初代政盛、2代正誠(まさのぶ)の時期に、城下町の拡張整備、新田開発、鉱山開発などが進み、新庄藩は元禄(げんろく)~正徳(しょうとく)年間(1688~1715年)に最盛期を迎えた。中・後期はたびたび冷害飢饉に襲われ荒廃したが、嘉永(かえい)年間(1848~54)に家老吉高勘解由(よしたかかげゆ)による藩政改革が進み、藩財政は好転した。戊辰(ぼしん)戦争では新政府側についたり、それに対抗する奥羽越(おううえつ)列藩同盟に参加したりと揺れたが、最終的には新政府につき、その功で1万5000石を加増された。1871年(明治4)の廃藩置県により、新庄県を経て山形県に編入された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「新庄藩」の意味・わかりやすい解説

新庄藩
しんじょうはん

出羽国(でわのくに)最上(もがみ)郡および村山郡の一部を領有した藩。1622年(元和8)、最上氏の改易により、常陸(ひたち)松岡の戸沢政盛(まさもり)が6万石で封ぜられた(のち6万8200石)。新庄(山形県新庄市)を城下とし、戸沢氏は以後、正誠(まさのぶ)、正庸(まさつね)、正勝(まさかつ)、正諶(まさのぶ)、正産(まさただ)、正良(まさすけ)、正親(まさちか)、正胤(まさたね)、正令(まさのり)、正実(まさざね)と11代続き明治維新を迎えた。2代正誠は御家騒動片岡事件のあと、元禄(げんろく)期(1688~1704)に藩政の刷新を図ったが、中・後期にはたび重なる冷害・飢饉(ききん)による農村の荒廃と人口の減少が著しい。これに対して藩は天明(てんめい)年間(1781~89)に藩校明倫堂(めいりんどう)を設け、また倹約令と囲籾(かこいもみ)の制、地方改(じかたあらため)などの改革を試みているが、とくに嘉永(かえい)年間(1848~54)、家老吉高勘解由(よしたかかげゆ)による藩政改革では、禄制の改革、備籾(そなえもみ)の制、殖産政策が知られている。1871年(明治4)廃藩、新庄県を経て山形県に入る。

[横山昭男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「新庄藩」の意味・わかりやすい解説

新庄藩
しんじょうはん

江戸時代,出羽国最上郡新庄地方 (山形県) を領有した藩。戸沢政盛が元和8 (1622) 年常陸 (茨城県) 松岡から6万石で入封,当初は真室にいたが,寛永1 (24) 年新庄に移り,のち新墾田を加増され6万 8200石となり,廃藩置県にいたる。外様,江戸城帝鑑間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「新庄藩」の解説

新庄藩〔奈良県〕

大和国、櫛羅(くじら)藩の旧称。永井直円(なおみつ)が天正年間に1万石で大和国、新庄に入封して成立。7代直幹のとき、南方約3kmの櫛羅に陣屋を移して改称。

新庄藩〔山形県〕

出羽国、新庄(現:山形県新庄市)を本拠地とした外様藩。藩主は戸沢氏。

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