囲碁名人。本名田村保寿。東京出身。初め方円社の塾生,後に本因坊秀栄(1852-1907)の門下となる。秀栄没後,後継者をめぐって雁金(かりがね)準一(1879-1959)と争わなければならなかったが,秀栄の実弟秀元の援助により,1908年,21世本因坊,14年終身制最後の名人となる。力戦型の碁風で,従来の布石重視の風潮に転機をもたらした。大正期の碁界は秀哉の指導のもとに展開した。23年中央棋院が設立されると,本因坊家の免状発行権を譲渡,免状発行権はさらに翌24年に設立された日本棋院に引き継がれた。26年棋正社との院社対抗戦では雁金準一七段と開幕戦を打って勝ち,また33年呉清源五段との記念対局は新布石勃興時代の先駆けをなし,碁界に新風を吹き込んだ。やがて毎日新聞社が新時代の選手権戦を企画するに及び,秀哉はそれによって本因坊の名跡を継承させようと考えて本因坊戦の創設(1939)を承認し,38年みずから引退碁(相手は木谷実七段)を打った。ここに世襲制の本因坊家は完全に終焉(しゆうえん)した。
執筆者:林 裕
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…18世秀甫(しゆうほ)(村瀬秀甫)は奔放な碁風で知られるが,1879年方円社を創設し,権門の庇護を離れた碁を,日本中津々浦々まで広めた功績で高く評価される。21世秀哉(しゆうさい)(本因坊秀哉)は最後の世襲本因坊で,その引退をもって本因坊の名跡は,本因坊位継承全日本専門棋士選手権戦(通称本因坊戦)のタイトルとして生まれかわった。第1期の本因坊戦が開始されたのは1939年のことで,関山利一六段が就任した。…
※「本因坊秀哉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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