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朝鮮、李朝(りちょう)末期の政治家、開化派の指導者。忠清南道(ちゅうせいなんどう/チュンチョンナムド)公州(こうしゅう/コンジュ)出身。号は古筠(こいん)。金炳基(へいき)の養子となり、1872年文科に及第。成均館典籍、弘文館(こうぶんかん)校理、承政院副承旨、刑曹(けいそう)参議を歴任。実学思想の影響を受け、朝鮮の近代的革新を志した。81年来日し、制度文物を視察、82年壬午(じんご)軍乱後に修信使の一行に加わってふたたび来日。帰国後、日清(にっしん)両国の圧迫下にある朝鮮の政治革新を図り、84年12月閔妃(びんひ/ミンピ)一族から政権を奪取するクーデター(甲申政変)を敢行、新政府を組織、戸曹(こそう)参判となった。しかし、清軍の反撃と金玉均らを支持した日本軍の敗退により、3日間で政変に失敗、朴泳孝(ぼくえいこう/パクヨンヒョ)らと日本に亡命した。亡命後は事態の紛糾をおそれた日本政府の冷遇にあい、小笠原(おがさわら)、北海道、東京を転々とし、一方、朝鮮政府は彼を犯罪者として引き渡し要求をしたり暗殺を企てたりした。94年刺客に誘い出されて上海(シャンハイ)に行き、3月28日上海の旅館で洪鍾宇(こうしょうう)の凶弾に倒れた。遺体は朝鮮に送還され、「大逆無道」の罪人として死体を引き裂く極刑に処された。同年、日清戦争勃発(ぼっぱつ)後、金弘集(きんこうしゅう)内閣によって名誉を回復された。
[中塚 明]
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
…しかし,その結果反政府熱はかえって高まった。 朝鮮では王妃の一族閔(びん)氏を中心とする親清派と国王の生父大院君派および金玉均独立派(開化派)が抗争しており,政治は乱れ,官吏の不正や日本商人の買占めで民衆の不満は高まっていた。1894年春,民間宗教東学を奉ずる農民は分散した民衆の不満を結びつけ,朝鮮南部を中心に汚職官吏の掃滅と外国人の排除を求める大規模な反乱を起こし,5月には各地で官軍が敗北するという重大な事態となった(甲午農民戦争)。…
… 朝鮮をめぐる日清両国の拮抗関係は留学生の受入れにも投影していた。朝鮮開化派の重鎮で日本留学の後ろ楯でもあった金玉均は,1882年3月の初来日で福沢と会い,以降多くの留日学生を福沢に託した。日清戦争後における日本の勢力拡大を背景に,朝鮮政府学部(文部省)と慶応義塾との間には留学生委託契約が結ばれた。…
※「金玉均」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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